"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

長いようで短い一ヶ月

まとまった時間を振り返るときに使う「長いようで短い一ヶ月だった」という言葉には、ほぼ社交辞令であることが多いとはいえ、若干の混乱や複雑さがあるように思える。

単純な判断基準の一つは 「経験した主観の時間が実際の時間より長かったか短かったか」 という「時間の濃さ」ベースのものだ。 つまり、「二ヶ月前だと思っていたら一ヶ月前のことだった」場合には「長い一ヶ月だった」を、「一週間前だと思っていたら一ヶ月前のことだった」場合には「短い一ヶ月だった」を使う。

しかし恐らく、実際には「この時間の過ごし方を続けたいか、続けたくないか」という時間の使い方に対する価値判断が紛れ込むだろう。 「早く終われ」と思って続けている日々なら「長い一ヶ月だった」になるし、「終わらないでくれ」と焦っていれば「短い一ヶ月だった」になる。

例えば、「目分量で二ヶ月かかりそうなタスクに対して一ヶ月しか与えられなかった」という気持ちがあれば、 「時間が足りなかった」という意味で「短い一ヶ月だった、あっという間だった」という発話がなされることはありえる。 ここではその一ヶ月がいかに濃密に過ごされていようが関係なく、「やるべきことがやりきれなかった」という無念感が強く出るだろう。

また、人との別れを惜しむときに、「初めてお会いしたのは一ヶ月前だったが、正直あなたとは一週間分の記憶しかない」というのは実際はそうであっても角が立ちすぎるので、一ヶ月分濃密な記憶があることを伝えつつ、上記のような「一ヶ月では全く足りない」という寂寥を伝えるために「長くて短い一ヶ月」のような不思議な言葉が生まれたのかもしれない。

人の欲に限りはなく、かつ時間が止まってくれないものである以上、たいていの人生は何をやっても「時間が足りなかった」ということになるので、「短かった」人生の方に偏るのだと思われる。いろいろな人生観があるものの、そうならないように時間の過ごし方を変えていくことが重要だと今のところは思える。

走るのが嫌い

走るのは昔からスポーツの中で一番嫌いで、やることが単調、テニスのような爽快感がない、汗だけかくのは損しているような気がする、などの理由からだが、ビーチで走るときだけはこういうネガティブな要素がなくて悪くないと思っている。Ocean Beachのような人のいない広い場所で、波音を聞きながら延々と走るのは、あまり苦痛ではない。とはいえ運動不足で、30分も走るともういいやとなるし、次の日には情けないことに筋肉痛になっている。

せっかくなのでトラッキングしようと思いとりあえずAndroidにStravaを入れて使い始めた。 Akihiko Satoda | Runner on Strava

これが機能的に他のアプリよりいいのかはよくわからず、サンフランシスコのミートアップでスピーカーの話を聞いたから身近になった、という以外のきっかけはない。知り合いにも使っている人がいて、見ていると走っている人もいるし自転車に乗っている人もいる。

継続する意志は正直そんなにないが、走るのが必ずしも嫌いじゃなくなっている自分がいるな、という発見。

Get Hands Dirty

今週はたまたま手を動かすミートアップが続いた。

  • ブレッドボードでの回路制作のミートアップに行った。内容は簡単だが英語で聞くのは初めて。
  • ドローン設計のミートアップに行った。
  • レーザーカッティングの講習会に行った。

Get hands dirty! #lasercutting

英会話がきついが、とりあえず足を運んで人と目を合わせるってのがスタートでもいいじゃないかという気がしている。

技術メモを書く

クズでもいいから何かしらアウトプットするのは重要だという認識を今更ながらもち始めており、技術メモにもそれを試してみている。 とくに技術の場合は、忘れた技術をすぐに再現する必要があるときが往々にしてあるので、手順書としての記録が意味をもつ。 自分が時間を割くことになりそうなトピックを何かみつけたらKobitoでとりあえずQiitaのエントリを起こす。内容は試行錯誤のヒストリーを書いて、徐々に埋めていく。 やっていることが一気に扱うには大きすぎると感じてきたら適当なサイズに分割する。 書き始めはチュートリアルをやってみるとか、別の技術要素と組み合わせてみるとか色々あると思う。 そうやっていくつものアウトプットを並行で作って、最終的にpublishするのは1割もないが、0よりはマシだ。 Githubリポジトリを作るのも同様によいかもしれない。

マイクロな思考

文章にしても技術メモにしても、つい何度も時間をかけて推敲してしまうのだが、それだと思考が追いつかないときがある。 正確には、アウトプットが思考に追いつかないということかもしれない。 周りが英語ばかりの環境に移ってからというのもあるが、単に歳のせいかもしれない。 人に見てもらえるように考えて整理して伝えるのは重要だが、整理や推敲を重ねる前の細かくアウトプットを重ねていくのも同じくらい重要だろう。 とりあえずマイクロな思考とでも呼んでおくが、それを出力する方法を考えている。 書かなければ揮発し、書いたそばからほとんど永続化していくような(イミュータブル?)思考・出力フロー。

ツールとしてはTwitter(それこそ昔はマイクロブログと呼ばれていた)がぴったりじゃないかという気がするが、ソーシャルな要素が気になりすぎて結局妨げになる。 次に自分がよく使うのはEvernoteだが、これはプライベートすぎる。Mediumは視覚的な美しさにこだわってしまうのでまたよくない。 とりあえずブログがいいような気がする。ブログは適当さを出しながらもアウトラインすることができる。こうしてはてなブログの新しい(古い?)使いみちを見つける。

新世界を迎えて

ドナルド・トランプ共和党候補が、波乱の米大統領選を制した。選挙人の誓約違反がない限りはこれで決定ということだろう。民主党ヒラリー・クリントンの敗因については詳細は専門家に任せて、自分に理解できる範囲で整理するとこんなところだろうか。

  • トランプ支持者への度重なる人格攻撃が、投票権をもつ匿名の隠れトランプ派を大量に発生させた、あるいは、ヒラリーを嫌っていた層の背中をひと押しした
  • 有力メディア・リベラル・エリートのほぼ全てが、バイアスのかかった情報に基づき趨勢を読み誤った。ヒラリー陣営の遊説戦略も軽重を誤った
  • 加えて、民主制というには旧弊で複雑な選挙制度が、情勢にとどめを刺した

さて、ここはカリフォルニアだ。知人たちはヤケ酒し、カリフォルニア中の大学や路上で、後の祭りというべき抗議が行われている。投票直前でさえ大人気なく「選挙の結果を認めない」と言い張ったトランプの発言が、まさに今そのまま逆の構図で現実化している。こういった動きを共感しつつも少し醒めた目で見てしまうのは、彼らエリートはカリフォルニアが米国において特異な州であることも未だに理解していないし、あくまでカリフォルニアから出てアメリカを変えようとはしないということが改めてよくわかるからだ。スタンフォードは中西部にゆかりのある学生に向けて、中西部の経済向上に貢献することを条件としたフェローシップを発表しているが、これが数年前に真価を発揮していれば、とも思える。

しかし、上から目線で他人を叩くとロクなことがないことが痛いほど分かったのでこれくらいにしておいて、ここからは内省をもって煙に巻いていきたい。今年、民主主義は理知的な言説の限界を見た。そうだろうか。もしそうであってもやはり、引き続き頭の中のものを恐れず吐き出し続けることが意味を持つに違いない。

なるべく冷静を保ちながらカフェで夜のニュースに張り付いていた(最初はニュースを見ながら勉強するつもりだったが、プライベートなことで消耗しきっていたので諦めた)のだが、一夜明けた今朝は夢ではないかという気持ちでいっぱいだった。多様な社会にこれだけ敵を作ることを厭わない人間を、多様性社会と言われる米国民が総意として選んだという事実、それ以上に、彼の言動をよしとする人間が肩で風を切る世界になっていく予感に、自分もはっきり言って戦慄を禁じ得なかったのだ。

逆に言えば、自分が守りたいもの、脅かされることが許せないようなものが(薄々分かってはいたが)見えたということだ。

自分の身近な人の多くが守りたいのは家族であったり特定の伝統文化であったりするのかもしれないが、自分の力点はそこではない。

いつからか、特定の価値観や人生観が周囲に蔓延してくるとそこから脱出したいと思うようになり、自分にはホームと思えるコミュニティがそう多くないのだが、この一見滑稽な人たちが凝集した土地には、脱出したいと思える要素がない。命の危険を除いては。いくら斜に構えてみても、自分もやはりスマートでリベラルな人が多いカリフォルニアを愛する一人で、その真逆の社会に自分が腰を据えるイメージはもてない、同じ穴のムジナなのだ。

リベラルや多様性そのものが究極の目的となり相対化できなくなったとき、正しいかどうかを超越して、それが一つの信仰であるということと、自分がその信者であることを、認めざるを得ない。そのことを自分の不安な心拍が告げたのが、今朝のことであった。

真理とは、それなしにはある種の生物が生存できないような一種の誤謬である (ニーチェ)

努力と逃走

大企業での過労死の悲劇をきっかけとして、働くことや生きることについて多くが語られている。「頑張る」「逃げる」といった態度の解釈が問われるのも、自然なことだ。悼む者としては、義憤を並べることもできるだろう。亡くなった人といま危機にある人に向けて、もし自分にしかかけられない言葉があるとすれば、今までのそれほど長くない人生で自分の身に起こったことを、特に努力ではなく逃走についていくらか語ることかもしれない。

幸いにも自分は命を絶つほど思いつめることはなかったし、これからもないと信じたいが、状況を克服した人間のバイアスほど危ういものもない。語ることで誰かを救えるのかは、分からない。むしろ誰かの気分を害するのかもしれない。だが、これは言霊の常として引き受けよう。せめて、(思春期以降の複数の経験であるということを除いて)なるべく具体的な状況を特定しないようにしたい。

これは本当に餞になるだろうか。どちらかといえば、語らないでいることを自分が自分に許さないというエゴに近い。こういう人間が一人いて、いつかはそのうち死んでいくという話に過ぎない。人生に再現性はない。再現性はないが、いや再現性がないから、書き残すことに意味があると思う。骨太な意見も理論的な背景も持ち合わせないが、経験を語るのにイデオロギーは不要だ。

もし読み手を想定する必要があれば、「努力」のガス室で死んだ目をしていた過去の自分に向けて書こう。あなたの前の扉は、そんなに頑張らなくても開くこともあるのだと。

挫折

自分にも、何らかの目標の達成に向けて心骨を削り徹夜で「頑張った」経験はある。自分が初めに経験した状況は、まだ楽観的なほうだ。一緒にプロジェクトを楽しむ仲間もいる。直前まで問題に向かう姿勢を見せ続けるということそのものが神聖視される。何となれば未達成の目標を前に「根性を見せないで帰る」人に白い目を向ける側に回ったこともなくはない。

怪我がないほうがおかしいほどの自発的なハードワークの成果は、残念ながら僅かだった。原因としては、プロジェクト管理が実質存在しなかったことや、結果より過程を重視していたこと、などいろいろある。

少しばかりの虚脱感のあと、自分の中で一番変わったことがあった。それは、語弊を恐れずに言えば、「頑張る」のをやめたことだ。闇雲に頑張る代わりに、人間やその集団についてよく考えるようになった。頑張るよりも、やることがある。人間は消耗し、置かれた状況を把握できなくなる。自らが消耗して初めて、少し人間的になったのかもしれない。

危機

その後の人生が順風満帆であればよかったが、このような、努力の過程を楽しめるような状況ばかりではない。思い出すだけで心拍が上がったり、なぜそんなことで神経をすり減らしてしまったのかと怒りがこみ上げてくるような記憶もある。

度重なる失敗やコミュニケーションミス、望まぬプレッシャー、衰える自信、震える声。「これができないのか。なぜお前はできないのか」の連発。「これはいつかきっと克服できる」という希望と、「これは明日も繰り返される」という絶望。

周りの人が憐れんでいるのがわかるが、同時に自分を蔑んでいるのかもしれないと訝る。話を聞いてくれる人は口を揃えて「あなたは悪くない」というが、耳に入らない。「なぜ自分はできないのだろう」という自問が続き、「常に問題の原因は自分であり、自分さえ変われば何とかなる」という内なる声が聞こえる。

やがて、玄関で靴を履いて、その場で数分間足が固まるようになる。ベッドに横たわって空気を吸っているだけで肺や血管が詰まるのではないかという感覚に襲われる。「現実」に殺される。

脱出

こういった不安を生むのは、独り歩きした心理学や自己啓発の断片かもしれないし、経験の少なさから来る視界の閉塞かもしれない。精神の置き場は変えられるが、肝腎の精神そのものはただ一つしかない。一度ある危険な精神状態にはまってしまったら、自分一人ではどうしようもなくなる。

自分の場合は、カウンセラーや医者と話す機会を得て、一度のみならず苦境を脱出した。とくにカウンセリングは大変有効だったのだが、日本にはこういったことを公にすることを避ける風土があるように思える。自分も例に漏れず、プロフェッショナルの「もっと自分を大事に」という真摯な提案を、初め受け入れられなかった。逃げたと後ろ指をさされるのが許せないのだ。

努力と逃走

逃げるという言葉には常にネガティブな印象がつきまとう。果たして、自分の場合は敗北感はしばらく続いたものの、逃げることによって、衰弱した精神は結果的に回復した。あのまま逃げていなかったらどうなっていたのだろうか。

自分の経験したことは努力と呼べるだろうか、という問いも可能だが、「これだけやらないと努力とは呼べない」という形の議論に持ち込むのは野暮だ。健康を害するまで苦労している人を貶めるつもりはないが、努力を美化し世界を動かす力と、逃走を糾弾し人を死に至らしめる力は地続きだ。思考なく行われる努力というのは、努力と名付けられた怠慢である。

逃げたというのは揺るぎない事実のように思えるかもしれないが、ものの見方であるともいえる。やるべきことを数えるよりもやったことを数えるほうがいいというのと同様、一時的に逃げることで、回り回って別の何かを追っていることもある。努力か逃走かといったうわべに気を取られて、より大切な思考から逃げているということはないか。

そういった価値転倒は、少しは許されないのだろうか。