"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

wanderlust

月並みだが、イライラしたときや落ち込んだときにInstagramで美しい風景の写真を見るのが好きだ。earth pornをググればまあ大量に出てくるが、自然である必要はない。街でもいいし案外廃墟でもいいのかもしれない。普段見ているInstagramがいい感じのアカウントを適宜サジェスチョンしてくるせいで、タイムラインはいつの間にかearth pornでいっぱいになってしまった。Facebookでもいいのだが、小うるさい説明やコメントはいらない。ソーシャルである必要もそれほどない。

食べ物の写真もいいのだが、空腹でないときには心が動かないし、食べ物には他人ほど思い入れがない。 食べたことがないものがあっても気にならないが、よく知らない文化がある遠い土地のことを知るとうずうずする。 ペットの写真も好きだが、何か笑わせようとする力を感じることがある。

こういう写真をとりたい、これを写真でなく自分の目で見たい、親しい誰かにも見てほしいと思わせるのは、何故かいつも風景の写真だ。 『コラテラル』でジェイミー・フォックス演じるタクシードライバーが、モルジブかどこかの写真を車内に貼っていつも眺めていた気持ちは、何となくわかる。

旅への抑えられない欲望を理屈で説明するのは難しい。それは非常に個人的なものだ。 大人になるまで芽生えなかった自然への愛であり、 世界史で学んだ知識のネットワークを無駄にしたくないという好奇心の延長であり、 人口が密集した狭隘な都市や均質的な郷土の空気からの逃避であり、 どうにかグローバルなフットワークを示そうとする陳腐な承認欲求であり、 それを見せてくれる人への憧れであり、 今いる場所で美しいものを見つけるのが下手という飽きっぽさであり、 旅ばかりして何が変わるのかと言って日々を過ごしていく人々への反発であり、 そして行きたい場所に行けないまま冥土へ旅立つことへの恐怖でもある。

時間や空間の使い方を自分でコントロールしているような気になるのかもしれない。 食べ物は腐る前にどうにかしなければいけない。ペットのシャッターチャンスは一瞬だ。しかし風景は、ときに何十年、何百年も、自分が訪れるのを待っていてくれる。 風景は、自分がどこか違う世界へ足を踏み出すことを励ましてくれている。 そしてその場所がそんなに気に入らなければ素通りすることもまた、許容してくれる。

運転にせよ旅にせよ、自分自身の物理的な移動をコントロールしているときに感じるエクスタシーは、移動を制限されたときのフラストレーションと表裏一体だ。 だから気楽に旅ができなくなる世界をもたらそうとする人々に対してある種の憎しみをも覚える。 彼らが、自分の世界を壊してしまったと考える人々に憎しみを覚えるように。

旅を実行できるときにしなかったことを後悔さえする。 これまで思い切った旅をしなかったわけではない。 シベリア鉄道に乗ったこともあり、1ヶ月かけて欧米を回ったこともある。 しかしほかの多くの欲望と同じように、wanderlustには終わりがない、いや終わりにしたくないという中毒性がある。 これは、先天的なものなのか、それとも後天的なものなのだろうか。 旅をしたくなくなるときは、いつか訪れるのだろうか。

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photo: Mijas, Spain 2013

人工生命と倫理

anond.hatelabo.jp

川上氏と宮﨑氏を追ったNHKスペシャルの件、これが川上氏本人の見解かどうかはさておき、断片的に上がっている画像や動画をみて真っ先に思い出したのはOpenAI Gymを使った強化学習による人工生命のデモだ。

Train Your Reinforcement Learning Agents at the OpenAI Gym | Parallel Forall

www.youtube.com

最近見たデモは、実際にはこれよりもずっと生命っぽさのあるものだった。

 

そして、Open AIのデモを観たときに思い出したのはさらに前の、遺伝的アルゴリズムによる人工生命だ。 

www.youtube.com

 

要するに、研究者やエンジニアが生命の進化に思いを馳せてこういうデモを行うこと自体はこのように珍しいことではなく、今更感がある。ただそれが3D CGのフィールドに出てくることが増えて、視覚的なインパクトが強くなっているというに過ぎない。

 

エンジニアとアニメーターがそれぞれの考えで生命を模したものを作る活動の根源は同じで、生命の驚異に対する畏怖と呼べるものだろう。この番組の状況は知らないが、その畏怖が気持ち悪い・面白いという気楽な表現をとってしまう、また障害者との身近な付き合いから笑えない、といった相手の背景に踏み込んでしまうことで「不快にさせる」ような衝突はあり、さらにテレビ的な演出が加わって問題を薄っぺらく見せてしまうということもある。だからといって両者が相容れないということはないと思いたい。

 

しかし、同じものを感じているにもかかわらずミスコミュニケーションが発生しているように見えること自体は少し頭の隅においておきたい。

 

恐らく人類のマジョリティは、自分と見た目や行動が違う個体を異形として迫害したり、逆に神話化することで歴史の物語を成立させてきたという側面がある。異形への恐怖や忌避そのものは、デフォルメされて我々の文化に深く根付いている。仮に例えば、古の異民族や被差別民、障害者、貧民といった社会から追いやられてしまった人々の歴史が、鬼や怪物にカリカチュア化され、それを恐れたり清めたりする風習が現代も愛されているとして、これをpolitically incorrectだとして排撃することは難しいだろう。

 

では、未来はどうなのだろうか。この先数十年、人間に似たものがどんどん作られて、創造者と非創造者の見た目の違いが失われていくのを止めることはできないだろう。そのとき我々はどこから、不気味だと顔をしかめて笑えなくなるのだろうか。人工的な何かを異形だと感じる心理と、人類の少数を疎外してきた歴史的な背景、そして見た目の美しさによって相手を評価してしまう動物的な本能とのオーバーラップを、我々は間違いなく無視できなくなるだろう。そのとき、人類の倫理はこれに対して準備ができているのだろうか。

 

Flickrを使う

Flickrをまた使い始めた。

9年前から主に海外旅行の写真を上げていたのだが、ここ数年はソーシャルな楽しみのあるFacebook、それからInstagramに完全に移っていた。

しかし、改めてFlickrに写真を上げると結構きれいに保存できるし、アルバムの見え方もなんかいいので、Instagramとは違う楽しみを追うのもありだなと思う。

 

Golden Gate Bridge

ジャズを聞く

以前よりもジャズを聞くようになった。といってもジャンルもアーティストも全くわからない。運転しながらラジオをかける程度だ。

ハウスやテクノも好きなのだが、夜に聞くとテンションが上がりすぎてあまりよくないような気がしている。 ヒットチャートもラジオでよく聞いていたが、バラエティが極端に少なくて時々飽きてしまうし、一部の曲は歌詞まで聞くと本当にダウナーな曲で鬱陶しい気分にさせられてしまう。 クラシックも悪くないが、心地よすぎて眠くなることがあるので運転中はほとんど聞かない。

ジャズはよくわからないので何を聞いても新鮮だし、歌詞はほとんどないし、リズムやメロディーが時々予測できないからか脳が適度な緊張感を保っている。 不確実性の時代に案外向いた音楽かもしれない。

ラジオのジャズが有名曲なのか、どれくらいのローテーションで流しているのかもよくわからないので、気分的にはほとんど一期一会である。 今聞いているのが誰のなんという曲だか知らないが、行きずりになっても構わないと思えるのが不思議だ。 SoundCloudで大量に垂れ流すどこかの誰かの知らない音源からたまたま精神の波が高まってくるのをつかまえるのに似ている。

こういう形式の刺激との出会いは、特定のキュレータやコミュニティ、メディアによる度重なる濃厚な刺激へのアンチテーゼのようにも思える。 政策を無理に撚り合わせたような政党に投票するのが民主主義の最前線とは限らないのと同様、人には大体好きなアーティストがいるものだという仮定も、一時代の惰性に過ぎないなのかもしれない。

soundcloud.com

エンジニア立ち居振舞い:何やってるのか分かるようにする

お題「エンジニア立ち居振舞い」

うまく整理できるかわからないが面白そうなので、思いつくままに書きなぐってこっそり差し込んでおく。 チーム構成によってメンバーへの接し方を変えるのがよいという当たり前の話になりそう。ときどきできてないこともある。

チーム構成が固くて分担できる場合

自分がマネージャーになる場合は、適宜タスク整理、チームのガイドライン整備、PRのレビュー、忙しそうなメンバーのサポートをする。 チームだからできることというのも多いので、うまくメンバーの能力にレバレッジをかけていく。

例えばドキュメンテーションの経験が長い人からはその話をちゃんと聞いて、現状とすり合わせてよさそうな方法を一緒に考える。 技術習得に熱心なメンバーがいる場合は、自分がやりたいのをこらえて「こういうのが主流みたいなんだけど着手できてないんだよねー」「このへん読むとなんかよさそうなんだよねー」みたいな感じでヒントを出しておくと自分よりもいい感じで調べて整理してくれたりすることがある。 自分にフロントエンド経験が全くなかったときは、より豊富なメンバーに完全にお任せしていた。

ただしいずれにしても、各メンバーの裁量でどうにもならないところは自分が引き受ける。 要件ヒアリング、外注先対応、他チームとの調整(ミーティングアサイン含む)、SlackやQiitaやConfluenceなどチームにあったコミュニケーションツールの選定、スクラム・リリースフローの調整、アクセス権限整理、リソースのコスト管理、メンバーの手に負えない技術調査、他社の事例調査などがこれにあたる。

メンバーの強化したい領域も推移していくし、のっぴきならない事情で自分が引き継がないといけない場合もあるので、分担は暫定と考えて、折を見て各メンバーから話は聞いておく。 他人がやってくれるからと上流に行き過ぎて手が動かなくなるとチームの価値発揮・自分のエンジニアキャリア双方危うくなることがあるので、それは避けるようにする。同様に、自分のやったこともちゃんとどこかに残す。再現性重要。あとチームの冗長化重要(とくに自分が休暇とって動けなかったりするとき)。

エンジニアメンバー(あるいはエンジニアの理解者)が少ない場合

チームに自分が入った時点でドキュメントがない場合はひとまず要件・業務フロー・全体の構成・シーケンスあたりをざっと書いて整理するところから始める。 その後は、何やってるか外から見てわからない感じにならないことが意外と重要かも。 「よく知らないけどこれくらいでできるんじゃないの」と言われたら、「あーまたわかってないな」と言いたくなるのを我慢して、後で潰すことも考えてとりあえず設計して実装して何かしらの目に見える進捗を見せる。 プロトタイプと割り切って、書いたコードにあまり思い入れないようにする。 少し落ち着いた時にコツコツリファクタしたりインフラの置き換えをやるというように、緩急つける。 もし可能であれば、スタックは自分が使いやすいもの、あるいは将来新しい人が入ってきてもググれば分かるくらいのよく使われるものにしておく。

その他

いつかのRebuild.fmで「自分が技術的にはやりがいがないと思う仕事ほど、逆に感謝されたりする」という話があったような気がする。 自分の興味と周りの要望のバランスはどうしてもとらざるを得ない。 とはいえ、こういう理由からエンジニアはふとしたきっかけで虚しくなったり孤独になりやすいような気がする。 ということで、自分が何をやってるのかわかるようにすることは、チームだけでなく自分のためにもなる。 一緒に盛り上がれるエンジニアが周りにいない場合は、他の環境のエンジニアとランチするだけでも結構救われたりする(隣の庭の芝生は青くみえることも時々あるけど)ので、そういうのを避けないで参加するとよいと思う。

他に何か思いついたら追記する。

年齢と嫉妬

SFのミートアップのCode of Conductに時々、ハラスメントになりうる項目にgender, race, religionに加えてageも入っているのがよい。年齢を気にしている暇があれば何か作れよというメッセージを受け取る。

自分のほうは、かつては世代論を表に出していた時代もあったし、自分も30歳という節目(英語で何というのだろう?)になって、同世代の多くがいい感じに温厚な人生を送っているのを見るたびに、不覚にもこれでいいのかという気持ちになることはままある。 端的に言えば嫉妬しているのだ。

嫉妬が成長のきっかけにもなることは否定できないとはいえ、嫉妬に苛まれる時間は正直無駄だと、今は思っている。 自分の人生も時々意図にかかわらず他人に嫉妬をさせる側でもあったことと、他人の嫉妬やひがみに対して逆に自分も軽蔑的な気持ちにさせられていたのを思い出すと、やはり嫉妬なんてなくてもいいのではないか、どうやったらその苦境から離れられるのだろうと考える頻度が増えている。 嫉妬はぽっと反応的に発生するものでコントロールするのは純粋に精神の鍛錬によるしかないか、自信がないことの裏返しなので自信のつく何かをやれというわけかもしれない。

SFの人達を見ていると、何歳からでも挑戦はできると本気で考えているし(その真偽を考えるのは別として)、本当に考えるべきことにリソースを費やしているようで励まされる。そもそも日本人のほとんどはアメリカ人からすると年相応より若く見えるので、自分が30歳であることすらどうでもよくなってくる。ますます日本での生活に支障が出そうだ。

長いようで短い一ヶ月

まとまった時間を振り返るときに使う「長いようで短い一ヶ月だった」という言葉には、ほぼ社交辞令であることが多いとはいえ、若干の混乱や複雑さがあるように思える。

単純な判断基準の一つは 「経験した主観の時間が実際の時間より長かったか短かったか」 という「時間の濃さ」ベースのものだ。 つまり、「二ヶ月前だと思っていたら一ヶ月前のことだった」場合には「長い一ヶ月だった」を、「一週間前だと思っていたら一ヶ月前のことだった」場合には「短い一ヶ月だった」を使う。

しかし恐らく、実際には「この時間の過ごし方を続けたいか、続けたくないか」という時間の使い方に対する価値判断が紛れ込むだろう。 「早く終われ」と思って続けている日々なら「長い一ヶ月だった」になるし、「終わらないでくれ」と焦っていれば「短い一ヶ月だった」になる。

例えば、「目分量で二ヶ月かかりそうなタスクに対して一ヶ月しか与えられなかった」という気持ちがあれば、 「時間が足りなかった」という意味で「短い一ヶ月だった、あっという間だった」という発話がなされることはありえる。 ここではその一ヶ月がいかに濃密に過ごされていようが関係なく、「やるべきことがやりきれなかった」という無念感が強く出るだろう。

また、人との別れを惜しむときに、「初めてお会いしたのは一ヶ月前だったが、正直あなたとは一週間分の記憶しかない」というのは実際はそうであっても角が立ちすぎるので、一ヶ月分濃密な記憶があることを伝えつつ、上記のような「一ヶ月では全く足りない」という寂寥を伝えるために「長くて短い一ヶ月」のような不思議な言葉が生まれたのかもしれない。

人の欲に限りはなく、かつ時間が止まってくれないものである以上、たいていの人生は何をやっても「時間が足りなかった」ということになるので、「短かった」人生の方に偏るのだと思われる。いろいろな人生観があるものの、そうならないように時間の過ごし方を変えていくことが重要だと今のところは思える。