"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

認知特性の話

togetter.com

参考文献も読んでないし専門性もないのだが、自分自身の意識や認知のパターンを観察・記述するのはメタ的で面白いのでやってみる。 マインドフルネスをやるにしてもこれを知っておくのは有意義であると勝手に思うことにする。

自分は文章に気を使う人だと言われることがあり、自覚もある。 とはいえ、文字に起こすのはかなり意識的にやっていて、少なくとも先天的ではない、むしろ自然に反する行為とも思える。 普段から文字で考えているわけではない。 大部分は文字になる前のとらえどころのない「原思考」みたいなものがときどき脳内に漂っている。

それらは文字でないのみならず、音声でも映像でもない。 棚とか袋とかいう例えもいまいちピンとこない。 表現を無理に試みると、概念のネットワークの一部が現れたり消えたりしているような感じだ。 脳内のどこかが発火していて、脳内の別の何か、あるいはどこかにあるイデアにつながっている。

意識化したそれらが再び無意識へ逃げ戻る前に、 何につながっているのかというネットワークの周辺構造をヒントに必死でたぐり寄せ、文字に起こして残しておく。 自分の場合、これは音声ではうまくできない。 話しているうちに整理されるケースも確かにあるのだが、必ず相手が、それもこちらが心おきなく話せる相手が必要だ。

こういうことを映像や音声でうまく伝えられるといいのだが、自分は文字より適切な手段を持ち合わせていないので、もどかしく思うことがある。 マインドマップやイラストも悪くないのだが普通はペン(に類するもの)と紙(に類するもの)の両方が必要だし、スマホを持っている限りほぼどんな状況でも出力できる文字に思考がだいぶ偏っている。 とにかく相手がいないときは文字でやるしかない。 この文章にしても、図解する気は1ミリとてない。

文字にしてつかまえただけの思考にはだいたい論理関係がないので、並べ替えたり曖昧な語を置き換えたり無駄な語を減らしたりする。 たった今もやっている作業だ。 自分の書いたものを見なおしているうちに、なんだたいしたこと考えてないなと思う時も多い。 仮説や結論の周りにパーツを配していくようなプラグマティックな思考体験が自分の中で成熟していないのだろう。 そのため、時間をかけたわりには論点がわからない文章も量産される。

この推敲の段階は、人に読んでもらう、思考を世界に送り出すための標準的な文章構成技術で、ルーチン的でつまらないと感じる時もある。 本当に面白いのは、まどろみの闇の中から湧き上がってくる、人に伝えられるかどうかの境界にある原初の思考なのかもしれない。 このメタ思考も、文章にしたことで真実なのかどうかよくわからなくなってしまった。

関連: これ、なんだろうと思う脳現象 - Schreibe mit Blut

転機

10/30付で、2011年に新卒入社してからお世話になったDeNAを退職となる。(10月はほとんど有給消化していた)

大きくはゲームのサーバー基盤づくりと、コーポレート部門のシステム基盤づくりに関わっていて、後者は3年くらいやっていた。 時間があるので、自分が考えたり関わったりしていたことについて気ままにふりかえってみる。 ここからはすべて個人の意見として読んでいただければ幸い。

ざっくり

DeNAのような会社に特徴的なのはグローバルでそれなりに大きな組織であることと、その内外のスピード感だ。 自分が就活していた2009-10年頃は、ゲームプラットフォーマーのグローバル展開の激戦を見ていた。 入社後、いろいろな業務をそれに追いつかせる必要があった。 諸々の業務システムは国内での業務を前提としており、主要なシステムについてはグローバル統合プロジェクトがそれぞれあった。

As-IsとTo-Beについて

はてなでバイトしていた頃はネットユーザーだけを観察していて、自分もその一人だった。 はてなにもはてなグループのような業務システムといえるものはあったのだが、業務システムやビジネスロジックという概念は長い間よくわからなかった。

業務においても開発においても、油断すると現状ありき、システムありき、技術ありきで話を進めがちだ。 業務の理解が雑である状態でシステムを作っても無駄な手戻りが発生することも多い。 手戻りを踏む判断ができればまだいいかもしれないが、既に組み立てた業務やシステムのサンクコストが大きく、もっと最適化できるのに手を付けられない・・・というもやもやを抱え続けることにもなりうる。負債とはこういうものの総称かもしれない。

現状ありきでものを考えないようにするために、大きく業務面とシステム面で以下のようなことを揃えて考えるのがよさそうだ。

  1. なんのための業務なのか
  2. To-Beはどうなればよいのか
  3. As-Isはどうなっているのか
  4. 現実的にはどこまでTo-Beに近づけられるのか
  5. 業務でカバーできるのか、システムが必要なのか
  6. システムは作るのがよいのか、出来合いのものを使うのか
  7. 作るには誰の協力が必要なのか
  8. 作ったものの寿命はあるのか、いつまでなのか

PofEAAやDDDの本などを読み始めてはいたが、 常に業務整理や設計にじっくり時間をかけられるかといえば、そんな余裕がない場合もある。 これから作るものはあくまで感触をつかむための暫定であって賞味期限Xヶ月くらいで捨てるつもりがある、という前提をおく柔軟さをもつべきプロジェクトもある。

体制について

スタックとしてはPerl,PHP,Python,Ruby(Chef),CoffeeScript,GoやAWS,Dockerなどを必要に応じて使っていた。

チームにはWindowsでの開発経験しかない(Linuxがわからない)、subversionしか使ったことがない、全員が共通して認識できる言語が少ない(あるとするとPHP)などの諸々の制約があることもある。 そういう状況ではできることから始めて、随時順応していくほかない。 スクラムは型に沿ってやってみて、いろいろ要素を落としたりしてなお試行錯誤が続き、まあそうあるべきという気もする。

はてブやQiitaを見る限り議論し尽くされている(もしくはまだ尽くされていない)ようだが、自分の担当システムも要件が集中しすぎる肥大化問題があり、APIQ4Mなどを通じて分割するアーキテクチャ変更を行った。 開発サイクルの分離、システムごとの設計やコンポーネント選定の柔軟性と、それによる属人化やチーム構成の複雑化など諸々を差し引いて、トータルではやってよかったと思う。

CIは完全導入までたどりつかなかったが、 個人的経験からすると、テストやCIを回すのは設計についての議論が共有されていることが前提である気もする。

柔軟性について

大きめの案件が一段落して運用に入り落ち着いている時期は、別の付加価値を出せるようなプロジェクトに時間を割くような調整をさせていただいた。 例えば、ある程度組織が大きくなると、ハードウェア・ソフトウェア資産の活用に非効率が発生しがちであるが、電子部品を買ってきて改善のプロトタイピングを行ったりなどしていた。またSlackやQiita:Teamなど界隈でメジャーなサービスを大組織で運用するとどうなるか、実際に利用してみたり必要な開発をしたりしていた。 業界や組織の流動性が非常に高いということの裏返しで、新しい問題に対する経験・ノウハウ蓄積を行っていこうとする柔軟性の恩恵を個人的に受けた。 これはとくに感謝している点で強調しておきたい。

出社するということについて

働く場所については、最近のベンチャーであってもリモート派とオフィス派に意見が結構別れそうだ。 自分の場合は、全社に対してオンサイトサービスを提供するチームということで朝9:30に出社していた。 ITとしては平均的というところだろうか。 チームによっては朝8時に西海岸とのコミュニケーションを入れたり、メンテ時間を無難な早朝に定めているところもある。 もちろん社内でもリモートを視野に入れているチームもあり、開発メンバーであればどこにいるかは関係ないと思う向きもあるだろう。 だが、リモートにするとメンバーの対応状況が見えにくい分、オフィスよりも即応性が求められる。 またオフィスでなら考えなくてよい画面やネットワークのセキュリティにも気を配る必要があるので、トレードオフだろう。

渋谷という立地について

入社当時は初台でNTTマンと一緒に電車を降りる生活だったが、2012年にヒカリエに移転した。 そういえばLINEは新宿移転のニュースがあった。 渋谷は人酔いする、汚い、うるさい、と嫌う人は結構多いが、個人的には好きな街だ。 個人的にも業務的にも関係の深いベンチャーが渋谷にはいろいろあって何かにつけて集まったり情報共有したりできるのはやはりよかった。 自分も頻繁にランチを主催したが、渋谷ならそれほど負担をかけずに来てもらうことができる (とはいえ、お店のノウハウはあまりなくてだいたい誰かのお世話になっていた)。 開発するだけなら地方でもいいのだが、都市の効率性とよばれるのはやはりこういう側面だろう。

業務について

仕事の話を書いたことはないのだが、メンバー、あと社外で同じような問題を抱えている人と話したことを振り返りながらその未来について考えた。 長くなってしまったので斜め読みしていただきたい。

組織規模やユーザーベース、戦略的に重要な提携が増えると、各種の情報へのアクセスコントロールの要求が高まる。 この要求を、組織文化を損なわないように機能化していくのは簡単ではない。 たとえばIRCの数百名のチャンネルで機密に近い会話が行われているとき、「ここにいる全員が、この会話を読んでよい人間なのだろうか」という疑問を全員が発している状態は不毛である。

コントロールしたい情報は立場や環境によって違う。 たとえば人事に責を負うメンバーにおいては、名前や性別や年齢、給与のような個人情報、重要な従業員の入社・離職、特定の雇用形態(という概念がしばらく意味をもつとして)のメンバーは誰なのか、などがある。

組織のある一連のアクティビティにおいて、少なくとも誰がインサイダーでありそうでないのかは明らかになっている方がよい。 単にある組織の境界の内部と外部で二分すればよいだけであれば、SSOを設置したり特定ネットワーク以外からのアクセスを遮断したりすればすむ場合もある。

そうでない場合はリソースによってユーザーの範囲や権限を変える必要がある。 同じアクセスコントロールを複数の情報に繰り返し行いたい、そういった操作を最低限にしたいという要求から、アクセスコントロール自体が緻密にオブジェクト化されていたり、アカウントのグループを入れ子にできるようなシステムも存在する。もっとも、10人のチームではこれはナンセンスかもしれない。

アカウントそれぞれの権限のコントロールはどうするか。 メンバーの信頼度や貢献度をリアルタイムに定量化できれば合理的だろうが、これは半ばSFだろう。 SFがテクノロジーをドライブする側面があるのは確かだが、もう少し現実的なものとして、雇用形態に基づくアクセスコントロールがある。

雇用制度や習慣もさまざまだ。 面接即日業務開始であるような国、逆にレイオフが日常的である国で、業務日数ベースのバッファを前提にした日本のシステムを無理に適用することはできない。シーズナルワーカーが多い文化であればそれに合わせた業務・システム設計が求められる。 職種や職能も同様だ。 グローバル化すれば、国内であれば考えなくてよかったタイムゾーン処理も入るかもしれない。地球は丸い。

業務システムに求められる処理量には、システム(間のインターフェース)の数と、インターフェースあたりのトランザクションの量という要素がある。 システムの数は組織の規模や人材多様性によるだろう。 それぞれの業務ドメインとメンバーに最適化されたシステムを利用したいという要望が増える。 GithubとSlackであらゆる業務が回ればクールだが、多くの場合は夢物語とも思える。 アクセスコントロールのような機能はリスクコントロールを求めるチームであれば普遍的に要望があるので、手元にある機能を組織内の不特定多数に展開するためのインターフェースも必要になる。 そうであれば、組織内のAPIやWebHookの管理を強化する必要があるかもしれない。

トランザクション量はビジネススピードと考えてもよさそうだ。 人事領域のトランザクションは会計領域よりは少ないだろうが、 未来の組織において人員配置の変更や事業会社の増減はよりカジュアルになっていくだろう。

多くの人間が特定の組織に対して決まりきった形でコミットするという労働像は、緩やかに崩壊しつつあるという感覚がある。 個人や緩やかなチームの活動が社会において占める比重は無視できなくなり、予想もできない協働の形が実現していくだろう。 組織のような社会システムの境界についての理念的な話に入るのは個人的に面白いのだが、別の機会としたい。

ともかくそのような環境において、無駄なストレスと余計なリスクを組織から排除して本来の組織活動を支えるにはどうすればよいかを常に見直していく必要がありそうだ。

退職について

様々な選択肢やプライベートな事情も含めてフラットに考える時間をとれていなかった。 仕事のほうは年下の新卒メンバーが育ってきて、自分依存の部分を減らせてきていた。 総じてよいタイミングだった。

久々に会った人が実は貸与PCの返却に来ていてそれっきりというのはざらだし、 人事データベースや業務システムのメンテも頻繁で、全社員の入社や退職を隣で見守るような業務だった。 いざ自分の番となると、ほう、そんな退職業務があったのか・・となるシーンもあり、謎の感慨もあった。職業病かもしれない。

社内にいてもいろいろな事業状況の変化があって飽きないのだが、オペレーションを支えるという自分の立場から見る限り、スピード感と同時に全般的に抜かりなくちゃんとやる会社だったし、それがDeNAのよさの一つでもあると思う。 4年半、よい経験だった。そしてエンジニアとしても楽しめた。 改めてありがとうございました。

今後について

退職前にベン・ホロウィッツx 南場智子の対談を聞きに行く機会があり勇気づけられた。

Startup X Talk #2~HARD THINGS 君は苦闘を愛せるか|EventRegist(イベントレジスト)

今後のことは考えていたことはあったのだが、結局まだちゃんと決めていない。 もともといろいろ半端に首をつっこんでいる(それを整理する時間をとっているというのもある)が、時間の使い方が何とも定まっていない状態は初めてなので新鮮だ。 裏方に徹し、サービスなりプロダクトなりナレッジなりを残すということを怠ってきたので、そちらに軸足を寄せていきたいという気持ちもある。 海外にも目を向けてはいて長旅も考えたがそれほど余裕があるわけではない。 もし何かお手伝いできることがあれば、お話できればと思います。

よろしくお願いします。

なめらかな社会とその敵

なめらかな社会とその敵

コーヒー

もらったコーヒー豆をどうにかしようとして、家でいれることにした。 何年も前に研究室の大掃除でもらったコーヒーマシンをためしに引っ張り出すとまだ動く。

さて、いれたコーヒーがうまいのかどうかはよくわからない。 缶コーヒーは嫌いだということを除けば、本当に申し訳なくなるほどよくわからない。 ダイエットのために同じコンビニの卵を連日食べていたらロットによる味の違いがわかるようになった、と友人は言う。 事実はさておき、そういうこともあるものだろうか。 毎日自分でいれたコーヒーを飲んでいたらコーヒーのうまさについて考えが深まることも少しはあるだろうか。

そのようなことを考えながらものを読んでいると、このようなくだりがあった。

自分がコーヒーを飲むのは、どうもコーヒーを飲むためにコーヒーを飲むのではないように思われる。宅の台所で骨を折ってせいぜいうまく出したコーヒーを、引き散らかした居間の書卓の上で味わうのではどうも何か物足りなくて 、コーヒーを飲んだ気になりかねる (寺田寅彦 コーヒー哲学序説)

思わぬ絶妙な記述ににんまりとする。 逆に言えば、素敵な環境で飲むコーヒーは、味はともかく、無条件にうまいのである。 何も目新しいことは書いていない。 70年前の文章にこういうことが書いてあるということが意外だったのだ。 これはある種の普遍的な理を表しているのかもしれない。

自分の場合、自宅にいて自分の時間をいったん確保しても、すぐにベッドに横になってしまうのがオチである。 なんとなればSoundCloudをかけて自分好みの雰囲気で仕事をすることはできる。 ついでに自分でコーヒーをいれるのは、この怠惰に抗うささやかなカウンターとなるかもしれない。

芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。これによって自分の本然の仕事がいくぶんでも能率を上げることができれば、少なくも自身にとっては下手な芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりもプラグマティックなものである。 (同)

寺田寅彦はここでは、単にコーヒーの生化学的な効果を讃えたのだといえる。古にスーフィーが知ったコーヒーもそれに近いだろう。

しかしもちろん、それが全てではない。 うまいコーヒーが飲みたいというのは本当は二の次で、コーヒーを飲む場、その場で行われる会話もまた大事なのだ。

普通の職場において、相手や周りの人間の都合をさしおいて本業以外のどうでもよろしい会話に堂々と従事するのは難しい。 いや、会話に限らない。 喫煙の営みを非難する嫌煙家ではないことを断る、むしろ煙草を愛する準備はあると言いたいが、しかしなお、非喫煙者がぼうっと思索にふける権利を行使する場所が少ないのには納得がいかない。 喫煙者が喫煙室で漫然と過ごすことを咎める人は少ない。 そのような場所を遠慮せず用意する理由があるとすると、喫煙者はいまや少数派であるからその程度の発散行為は黙認できるということであろう。 これは発散したければ紫煙をくゆらす少数派に加わるしかないというおかしな状況だ。

閑話休題

日本はまだしも、海外のカフェに一人であればさらに緊張感が増す。 しかしあえてノイズの多い街に出てまで、自分の人生を一歩引いて眺め、あるいは有意義に使う時間を作ろうとするのが、人の性のようである。 学生時代を振り返ってみても、京都の町家でよく人を集めていたとき、そのような場を使うだけでなく、自らデザインしたいと考えたこともあったのを思い起こす。

サードスペースの呼び声を待つまでもなく、サロンやコーヒーハウスがビジネスやジャーナリズムの舞台としていつの間にか当たり前になった頃から、革命を準備する空間としてもカフェは存在した。 これからもまたそうであるのだろう。 一方、コーヒーの生産から消費に至るまでの道のりでさまざまな歴史の闇が発生したし、コーヒーが完全に幸福の嗜好品であるとは現代においてもまだ言えないだろう。

酒や宗教で人を殺すものは多いがコーヒーや哲学に酔うて犯罪をあえてするものはまれである (同)

はてさて、少し呑気な言であると言いたくもなるが、誰にも文句をいわれずに楽しめるのはコーヒーくらいでちょうどよいといわれれば、大いに頷ける。

というようなとりとめのない随想を、やはりコーヒーを飲みながら嗜むのだ。

バックグラウンドアプリを晒す 2015/08

これを時々やることにした。

satzz.hatenablog.com

インプット

  • Kindle: 暇さえあれば本を読むようになった。
  • WhiteNoise: もともと静かな環境で使っても集中力が上がることがわかったので、結構ヘビーに使う。
  • Podcasts: 英語を聞いていたが、今はRebuild, Mozaic, Podpatchを聞いている。
  • SmartNews: push通知がきたら見る。毎日は見ない。
  • カメリオ: 中の人とお会いしてから時々見ている。
  • Shazam: 代替がないのでお世話になっている。
  • Weather: ときどき見る程度になった。

アウトプット

  • はてなブログ: ちょっとずつ書き足す。Slackに書き足すほうが多くなった。
  • DO Camera: Evernoteのカメラボタンの外出しとして使うくらい。
  • Evernote: あとで検索できるように基本的になんでもメモる。
  • Google Sheets: 専用アプリがあることを知ったので使っている。ある程度整理されたデータを編集するのに使う。
  • Google Drive
  • ブクログ

コミュニケーション

  • Slack: 毎日使う。14チームほどあるので切替が若干辛い。
  • Facebook Messenger: ほぼ毎日使う。
  • Facebook: 毎日は使わなくなった。Kindle開く時間のほうが多い。
  • Twitter: 毎日は使わなくなった。
  • Swarm

タスク・予定管理

自己管理

  • MoneyForward: 各口座連携だけでなく投資信託の管理もできるのでこれにした。ただ、最近スマホのUIが変わって入力項目減った(PASMO/現金を入力できない)ので困る。
  • Sleep Cycle: とくに明確な目的はないがときどき睡眠の記録している。
  • Withings: WiFiBluetooth機能付きの体重計に連動するアプリ。スマホでやることはグラフのチェックくらいだが、体重計をドライヤーと同じところにおいてお風呂から出るときに必ず乗るようにしたところ習慣化に成功した。
    • www.amazon.co.jp

ツール・標準アプリ

  • box: ほぼホワイトボードの写真の社内共有用。
  • IFTTT: カメラロールをバックグラウンドで監視している。
  • Google Maps: 気になっているお店や行ったことあるスポットをスターで全部記録するようにしたら意外に楽しい。
  • Safari
  • Settings
  • Clock

記憶と意志

人の生は記憶により成立する。

学問の美しさに陶酔して励んだ学び舎の日々、体力任せで仲間と何かを成し遂げた夜明け、 二度と訪れるかわからない遥かな地平を巡る旅。 やってくるかわからない不確かな未来と違い、確実に現前した素晴らしい世界。 追憶という耽美の営みは人を惹き付けて已まない。

人間はそんなに過去志向ではいけない、過去の失敗は、いやときに成功でさえ、捨て去るべきであるという考えもある。

自らのための記号を発明した人間の生は、忘却を前提に生きるようにシフトしてきた。

いまもあなたは、文字の生みの親として、愛情にほだされ、文字が実際にもっている効能と正反対のことを言われた。なぜなら、人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植えつけられることだろうから。それはほかでもない、彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに掘りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになるからである。じじつ、あなたが発明したのは、記憶の秘訣ではなくて、想起の秘訣なのだ。 ータモス(プラトン『パイドロス』)

人間のaugmentationの最前線にある、WikipediaGoogleEvernoteといった現代の外部記憶もまた、我々がこれまで覚えてきた何かの価値と、これから何かを覚えることの必要性の双方を減じていく。

果ては記憶を否定し、忘却を至上とみなす価値観が生まれ、Snapchatのような刹那を彩るサービスも台頭した。

これまで記憶に注いできた時間とエネルギーを、代わりに創造へ。

さて、記憶のくびきを解くことで輝かしい未来は築かれるのだろうか。 未来もまた記憶により構成される。 一貫した過去が、未来を築くための足場を用意する。

忘れてはいけないモノというのはないのだろうか。 忘れることで人間が色褪せていくモノがあるとしたらそれがそうだろう。 クリストファー・ノーランの『メメント』を観れば、 記憶力を失うと人間がどうなるかを想像してみることはできる。

何を作ったのかを忘れる。 何を誤ったのかを忘れる。 何が問題だったのかを忘れる。 何を変えようとしていたのかを忘れる。 何に感謝したのかを忘れる。 何を夢見たのかを忘れる。 何を考え、何に熱狂し、どこでなぜ誰と何を志したつもりだったのかを忘れる。

いずれ忘れることは分かっているので忘れる前にせめて記録をつける。 記憶できなくても記録はできる。 何のために記録したのかも忘れる。 やがて記録したこと自体が記憶の深層に埋もれていく。

夜に誓ったことを朝には忘れる。 昨日と今日とで言動が違う。 飽きっぽい。継続しない。 自分が何に責任を負っているのかわからなくなる。

やがて自分自身ですら信頼できなくなる。 一貫性が綻び、 意志の代わりに小さな痴呆が微笑み始める。

人と人の間に存在する問題の多くは一貫性の欠如に根ざし、それは記憶力の衰えに由来するのかもしれない。

パイドロス (岩波文庫)

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メメント [Blu-ray]

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ブログを始めて10年経った

自分がブログを開設したのは2005年の5/19、初めて何か書いたのは5/21ということになっている。 初めから10年続けようと思っていたというよりは、気がついたら10年経っていた。 全然書かない時期もあった。 今10年を振り返って一番面白いのは自分だろうし、このエントリを10年後に読んで一番面白いのも自分だろう。 この手のエントリは油断すると老害化するものだが、他人の参考には恐らくならないだろうという注意書きを添えたところで、段階的に振り返ってみる。

2005年〜

最初のエントリは「大学に入ったし、新しいことを始めたい」という単純な意志表明だった。 同期に誘われmixiも始めていたがブログの方がデザインなど色々カスタマイズもできて面白かった。 サービスはいろいろあったが、割とメジャーだったgooブログにした。 内容はだいたい大学の講義、バイト、読んだ本やサークルの活動、言語について(これは今でも時々書く)が多かった。 国語の授業や試験で物を書くのは大嫌いだったが、好きなテーマを好きなように書くのは好きだということがわかっていたので、ブログの手軽さもあって更新頻度と文章量は膨れ上がっていった。 2001年ごろ始めたホームページのメンテは続けるつもりだったが、すぐに廃墟化した。

2006年頃、ライフハックや生産性の考えに興味が出てツール熱に拍車がかかった。 Gmailのアカウントをとり、ウィルコムスマートフォンW-ZERO3 を買った。 『ウェブ進化論』でシリコンバレーという地域のことを知ると同時に「一億総表現社会」という考えに触れた。自分のブログをgooからはてなに変えた。 サークルでもHPの管理をしていたが情報発信の手段は開放されるべきだとBloggerのブログを開設した(今でも現役部員による更新が続いているようだ)。

2008年〜

研究室生活が始まり、同時にはてなのバイトとしてコードを書き始めた。 iPhoneTwitterのタッグによりコミュニケーションの様相がだいぶ変わった。 ハチロク世代のような新しいもの好きのコミュニティに顔を出し、 2009年には専攻のはてなグループを作ってみた。

刺激の内容は深化してブログに書くことも増えそうだが意外にも激減した。 無理に理由づけすることもないが考えてみると、

  • バイトに研究に、コミットの形式が分散するようになった。ウェブやソーシャルの波を意識しながらコミュニケーションの試行錯誤をする中で、ブログはone of themでしかなくなった。
  • 刺激が多いのに満足し、内省に回す時間をとらなかった。
  • 優秀な知人に恵まれ、書くのが恥ずかしくなった。

といったことがありそうだ。

2011年に社会人になって、ますます好き勝手書くのは控えよう、となった。 どういった理由にせよ、書くこと以外に割く時間が増えたのでもなければ、書く量を減らしたことによる恩恵はない。 仕事を中心とした様々な経験があった一方で、記録されたもう一つの自己であるこのブログにとっては、失われた時間とも思える。

2013年〜

ブログに書く量が少しずつ回復してきた。 2014年からは、週に一度は文章というより自分の時間の使い方や考えたことを振り返って書くことにした。 正確にはEvernoteやSlackにメモしておいて週末に振り返っている。 ほとんど書くこともない週もあるが、もし一週間を無駄にしたのであれば、それを自覚するよい機会にはなる。

これまでのところ、ファクターとしては刺激と内省のバランスが重要で、ブログが書けないほど刺激に偏るのもどうかという感じである。 またどこに書くかでいうと、Twitterは手軽だし読むにもまだ飽きないのだが、それで散逸しきった思考の再構成を行う場としてブログは依然有効だと思えている。 Facebookでも長文は書けるが、ソーシャルなフィードバックが欲しいというのとは何となく違う。

書くことについて、ややエゴでドライな観点を取り戻したように思える。 自分で考えたことは、自分で残さなければ、二度と戻ってこないかもしれない。 自分が書いたもので誰かを傷つけるのでないのなら、残してやろう。 忘却の喪失感よりは、生き恥を選びたい。 何の価値もないと思える文章でも、書く。 もし文章にならなくても、書く。 そうやって、淡々と書き続ける。

今後

物を書くときに一言「ポエムです」と添えるのが少し前に流行り、 ポエムであることを自覚しているということを言明するプロトコルとなった。 自分のブログの内容は、メモを除けば一貫してポエムであるといえる。

だが、ポエムであるかないかは実際のところどうでもよい。 人を動かすポエムと人を動かさないポエムが存在するというにすぎない。 そして人を動かすポエムのほうが重要かというと、まあそうでもない。

文章を残す目的は人を動かすことだけではない。 自分の場合の目的は何なのか、ついでに考えてみる。 一つには、どのような思考過程が可能なのかという整理を、書くことで行っていきたい。これは自分のためだ。頭のなかがもやもやしている状態を放置するのは、気持ち悪い。 人を動かす以前に、自分自身を混乱なく駆動せねばならない。

もう一つには、何かを残すという行為そのものに、単なる一市民のものであっても人類学的な価値を認めている、というのがある。 近世の哲学者や文豪のように、死んでから書簡の内容を全公開されるような時代でもない。何を残すかは、少なくともそのときの自分の意志でコントロールできるのだ。 西暦2015年の人類が考えていて2025年の人類が考えていないことがあれば、前者が残したものは貴重なアーカイブとなるかもしれない。それは2005年当時、1995年当時のインターネットを見てみればある程度当たりがつく。

しかし、結局のところ「書くことについて考え、考えることについて書く」という営みには、そのような大仰な理念以前に根本的な中毒性があるのかもしれない。 文章を紡ぐという脳機能が機械化されるまでは、機械のように続けていくだろう。 飽きっぽい自分が10年経ってもまだブログという同じ型式でそれをやっていることに、ひとまず驚きのような感慨のようなものを覚える。 それにしても、「何らかの物語や思想やミームを、それが死ぬ前にどこかへ複製してしまいたい」という、ナマの、ある意味血みどろのこの衝動は、どこから来るのだろうか。不思議なものだ。

Schreibe mit Blut: und du wirst erfahren, dass Blut Geist ist. ( 血をもって書け。 そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう)- フリードリヒ・ニーチェ

味覚の硬直

肉、魚、米、麺のように、子供の頃から好きな食べ物がある。 また、ホルモン、パクチー、ごま油、柚子胡椒のように、大人になってから好きになった食べ物がある。 珍味だとセミの抜け殻の唐揚げなどは意外にうまくてまた食べたいと思った。

だが、子供のときに嫌いだったものが好きになるということは残念ながらほぼない。 大人になって好きになった食べ物は、子供のときにほとんど食べなかったものだ。

大人になって嗜好が変わったことは否定しないが、それは新しい食べ物に対する反応が変わるということであり、一度嫌いになった食べ物をその後好きになることはほぼない。 自分にとっては、納豆、キノコ、茄子、セロリ、ウニ、日本酒などがそれだ。 嫌いだから残すということはもちろんしないし、人からすすめられたものには挑戦してみるが、心からうまいと思ったことがないし、自分から喜んで頼んだりはしない。

これがもし一般化できるなら、子供が嫌がるものを無理やり食べさせてはいけない、なぜならそのストレスが刷り込まれると、大人になってからそれを好きになる可能性を奪ってしまうから、ということになる。

だが、自分の味覚はかなり硬直していると思う。 だからあまり味覚の話で他人と共感できることは期待しない。 そもそも、何を食べるかよりも何を考えながら誰と食べるかのほうが重要な関心ごとだ。 味覚は柔軟に他人に合わせるのが難しい(合わせかたを知らないだけかもしれない)が、思考についてはそこまでではないのだ。