"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

経済学考

経済学という学問ははっきり言って嫌いである。学問として認めるのも不快なくらいである。この傾向は経済に興味を持ち始めると同時に始まったようだ。経済は生き物だ、有機的生命体だなどというが、その存在自体が、人類の歴史の家庭で発生してきたとはいえ、あまりに作為的に思える。20世紀に入ってから殊にそうである。人の造りし物に人の振り回されるを見るや、あまりに滑稽で、無意味で、どう考えても理不尽なことである。経済という存在の支配の下に生を得ているという事実にどうも納得が行かない。近々そんな時代は終わる筈だ。人が経済の支配を脱する時が来る筈だ。人の命を握る経済が終わり、経済が死ぬときを待つのみである。

経済学者という人種も何か信用できない。純粋な科学者の眼で観れば、経済学者とは数学者から数式を盗み、非科学にして科学者の名を騙る連中と映ることは間違いがない。不本意にもかくのように巨大化し複雑化し人の制御の行き届かぬ物を、人の理解し得る数学の近似式で解明しようなどという魂胆に呆れるばかりである。戦後五十年の間だけをとっても三回の推進期と高度成長期からバブルの崩壊までを予見した経済学者がいる筈がない。また朝鮮戦争やNYWTCのテロなど不確定な要素を数式に盛り込める筈がない。カタストロフ理論とかいうのを経済に用いようとするものもいるが似非科学もいい所である。仮に東京やロンドン、NY、フランクフルト、パリ、北京など世界の何ヶ所かの証券取引所や銀行などにテロリストが爆弾をしかけたら、或いはそのようなブラフを行ったら経済はどうなるだろうか。また或いは証券取引所の株価表示をコンピュータウイルスなどで狂わせて景気の操作を図ったらどうだろうか。また今度は本当の凶悪なウイルスが蔓延して人類の大半数を死滅に至らしめたらとしたら・・・?答えはそれぞれ自明であろう。

十年、いや日単位で目まぐるしく変化し、数台の飛行機、いや数百kgの化学物質で崩壊し、数本の電話や手紙で混乱、数行の暗号化された文字列で歪曲し、一種類の病原体で消滅するような、そんな世界が、科学の対象たりうるか?(2004.02.06 手記)