"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

銅臭

そんな突っ込みどころ満載の甘っちょろい思いを胸に、国内最高峰と謳う学府にひょっこり飛び込んで最先端の科学を志そうと決めていた往時の一介の理系受験生にも、もうモラトリアムは残されていない。手短に言えば、この先数十年、現代社会に自分の生命を繋ぎとめようとし続けるのなら、食いブチを考える覚悟をもたなければいけないということだ。もちろんそんなことはとっくの昔から分かっていた。分かっていたつもりだったが、学問を言い訳にして逃げてきただけなのだった。僕は遅かれ早かれ、何らかの形で経営に関わっていくことになるのだ。

大人という人種は狡い。戦後のこの国の復興に便乗して若い人材の確保もそこそこに適当な経営を続けてきた会社を、自分たちはもう歳だからお前が継げなどということを顔色一つ変えずに言ってのける。人間は歳をとるし、いつかは死ぬ。それは当たり前のことだ。組織が特定の人間に依存しているような状況は誰が考えても健全ではない。そんなマヌケで論外な組織は最初から生き延びる気がないと云われてもしかたがない。サークルの運営一つをとったって分かることだ。まだ2000年問題の方がマシだ。組織にカリスマなど必要ない、ドラッカー先生に云われなくともそれくらいのことは頭に入れておくべきだった。それを怠ってきた大人たちの延長線上に僕の人生がある。

僕の将来は一体何だというのだろう。僕の意志は一体何だというのだろう。果たして、家族のために人生をかけて会社を継ぐことが親孝行だとでもいいたいのだろうのか。僕の意志や生きがいはそこにない。こっちに云わせればそれは自殺に等しい。そんな愚痴はしかしながら、毎日の経営に疲れきっている家族を前にしては口が裂けても云えないのだ。こうやって自分のブログで毒を撒き散らして鬱憤を晴らすことさえ、下手をすれば自分の首を絞めることになる世の中だ。もう何もかもが憎たらしい。

この手記から3年、「科学」を修めようと思い立ってからはきっと6年ほどになるが、それでも変わる想いと変わらぬ想いがある。だんだん経営のことに関心が向き始めても、やれバイトだやれ時給だという話を已むなくしていても、僕は未だにカネという代物が憎くて憎くてたまらない。暴力や犯罪や戦争や環境問題を世界から消滅させることには日々熱心な世論という生き物は、格差やスラムを生む経済戦争の不幸な犠牲者には冷たい。隣の会社が倒産しても仕方ないで済ませておきながら、力のある外資がこぞって買収や独占を始めるとしかめっ面をする。ギャンブルはダメだといいながら、世の中ぐるみで経済や株という大博打を打つ。あたかも人のことを考えているような顔をしている奴の大半は、結局自分の周りの数km圏のことを考えるだけで精一杯なのだ。もちろんそういう人たちの中には、アフリカの難民を助けにボランティアに行ってしまう人だっている。そういう人は本当に尊敬に値する。でも大抵の日本人はそうじゃない。日本という共同体を守るのに必死だ。全ては同じ話だ。カネに関する倫理観が適当すぎるのだ。

僕は何が憎いって、そういう中途半端な義理人情が一番憎い。利己主義が憎いのではない。自分の利己主義をして利他主義と言い張り他人の利己主義を貶める肝っ玉がどうしようもなく憎い。その複雑な憎しみを果たして正義と呼ぶかどうかは人の勝手だが、僕はただ単に醜いものが嫌いなだけだ。分かりやすくいうなら、道を歩いていて眼にとまる犬の排泄物だとか、酔っ払いの吐瀉物だとか、そういうものを見るときの気持ちだ。自分と同じ人間が、公園や駅で冬の寒い夜を過ごしている光景を見たときの何とも云えない風情だ。原罪として世界に満ち満ちている、そのクソ忌々しい異臭がするどうしようもない偽善から人類を救うだとか、世界経済を全力でぶっつぶすだとか云ってくれる本当の正義のヒーローは、未だ僕の前には現れない。こんな人間の汚さを死ぬまで拝み続けなければいけないのなら、人類まるごと一切合切貧乏になって取っ組みあって、カネの虚しさを心の底まで共有したほうがいい。

優秀なビジネスマンはビジネスは面白いという。確かにビジネスは面白いかもしれない。でも、ギャンブルもきっと面白いだろうしテレビゲームも面白いのだろう。確かにギャンブルやテレビゲームは人を腐らせるのかもしれない。でも、経済は人類を腐らせている。いやいや経済がなければ人類の進歩はなかったといえるかもしれない。しかし、同じく戦争がなければここまでの人類の発展は築かれなかったに相違ない。要するに不毛な議論だ。

財布の中の偉人の顔を拝むのではなく、その紙きれが意味を失う時代を誰かが、あるいは新しい何かが切り拓いてくれることを切に願いながら、僕は日々カネを稼ぐ。

さて、人生どうしようかな。斜陽産業のドブにでも捨ててしまうかな。