"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

弱者

京大生という人種は、自分が誰に養われているかを知らない。知らないから、誰かが払ってくれている授業料分の講義にでてモトをとろうという意識も貧しく、人生の夏休みともいわれるキャンパスライフを往々にして無為に過ごす。仮にそのことに気づいたからといって、すぐに自分の授業料を払えるようになるわけではない。多くの学生は授業料だけではなく日々の生活費や下宿代、小遣いといったあらゆる出費を親に頼り切る。

自宅生の僕は時々「親孝行だね」と言われる。もちろん下宿生に比べて、という意味である。別にここがいいですと選んで京都に生まれたわけではないし(結果的には感謝しているが)、下宿生のことを親不孝だなんていう資格のある人間なんざ津々浦々のどこにもいないと信じているが、学生というのは親に迷惑をかけるのが仕事のようなものである。親には甘えられるうちに甘えとけ、というありがたい言葉をくれた恩師もいらっしゃったが、残念ながらそれを鵜呑みにできるほど神経が太いわけでもない。

学生は養われている。それは当たり前で仕方のないことだが、だからといって働いてカネを稼ぐことが悪いわけではない。寧ろ、いつまでもいつまでも学問をやっていられるというのはよっぽど裕福な家庭事情か、単なる楽観論によるものでしかない。楽観論も使いようでは無用の長物だ。理想や口だけで行動が伴わない人間を信用する由もない。自分はカネには興味がない、と偉そうなことを言ったところでカネと離れて一人で暮らせる人間などいない。わき目もふらずに勉強するのは大いに結構だが、あまりに頑なだとカネに見放されて惨めな暮らしを送ることになる。社会とはそういうところなのだから仕方がない。

生命線を握られているから、親の言うなりになるしかない。ふりかえってみれば小学校のとき友達とゲーセンに遊びに行こうと思ったときも、進学先に関東の大学を検討したときも、W杯のゴタゴタで緊迫下の中国に旅行に行くといったときも、変わらず親に反対されて自分の考えを貫かなかった。僕は弱い人間だった。言うなりにならずに我がままばっかりやっている人もいるが、その代償を自分で払う能力がないのならそれはただの不孝者でしかない。

親に養われるということは、弱みを握られるということである。その点学生は社会において弱い存在である。いくら世間様にたてつこうが人を殺そうが、未だ自分で自分の面倒を見切れないという点では小学校を出てからそれほど進歩していない。僕にとってカネを稼ぐ一つの意味はこの状態を解消しようという奮闘だった。「誰がお前に飯を食わせてると思ってるんだ」的な係累によって、家族の敷いたレールの上を数十年滑り続ける灰色の一生を送る自分を描いてはそれに抗ってきた。

さて、人間が自分と相容れないモノに出会ったときの対処は限られている。消すか、変えるか、受け入れるか。政治、刑罰、戦争、革命、宗教をはじめとする人類史上の活動の大抵は、自分と相容れないものを自分の好むものに変えよう、無理ならばこの世から抹消してしまおうという営みでしかない。様々な憎むべき状態を生み出すカネを忌み嫌うのなら、いっそ世の中からカネを駆逐してしまえばいい。革命が起ころうと戦争になろうと、僕はどうだって別に構わない。寧ろそれはそれで面白い。

しかしそんな戦いを挑む馬鹿(あるいはそんな能力のある天才)はいないし、たとえそいつがどれだけ足掻こうとも、学生の僕らが無力のままカネの海へ船出していく日は避けようがない。加えて、僕は結構タチの悪い形で投げ出されることに、どうもなるらしい。運命とか宿命とかいう言葉が好きな人もいれば嫌いな人もいるが、どっちでもいい。少なくとも僕の回りの世界の仕組みは、僕の目の玉の黒いうちににどうこうなるものでもなさそうだ(ひょっとしたらそうでもないかもしれない、という希望もあるが)。だとしたら僕は、少しは強くならなければならない。世界を変えることも、自分を変えることもできない弱者にとどまるのはごめんだ。

だから僕は、来たるべきカネとの戦いの前に、敵であるカネについて勉強しておいて損はないと思うのである。



カネは使うモンですよ。カネに使われたら、人間お終いでしょう(『ハゲタカ』)



とかなんとか前口上を並べて、とりあえず簿記3級受けることにしましたよっと。。。