"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

空気の粛清

カリスマ的な人気を誇る芸能人やアーティストがちょっとした言動からメディアによるバッシングを受けるという構図は一見、ネット時代になっても変わらない。しかし、ブログやSNSの普及は「叩く側」と「叩かれる側」の両方のすそ野を広げる。

叩かれる側には「動物虐待や犯罪歴を堂々と書く」ケースのように落ち度がある場合もあれば、「少し自分の思想を並べてみただけで叩かれた」ような落ち度があるとはいえない場合もある。日本のネットユーザだけでも数千万いるのだから、その中に自分と正反対の意見の人間がいないほうが不自然、というのは誰でもわかる。飯の中身のようなよほど無難な話題でなければ、ブログやSNSで何かを書き続ける限り、バッシングリスクが少しずつ上がっていくのは基本的に避けようがない。

少し前にも、2ちゃんねるで友人のブログを引用して悪口を言っていた高校生がGoogle検索という初歩的な手段で実名と学校名を吊るし上げにされた騒動があった。「○○はマジうぜぇ」とあたかも「空気を読める知り合いにだけ読んでもらう」つもりで書いたようなKY論が、実は2ちゃんねらーのような古株からすると一番KYだということを見抜けない新参ユーザーに対して、一部の過激派が「空気を読むフリをするな」「ネットをなめるな」と一気に襲い掛かる。もっとも、この手の騒動を痛快と見るか陰惨と見るかはその人がどちら側に立っているかに著しく依存するが。

人には何かしら信じるものがある。妄信的に何もかも疑っていては人間社会は成り立たず、信用のおけるものの共通部分として常識という概念の存在が前提される。しかし当たり前のことだが「常識」は人によって違う。ゲーマーにとってポケモンの進化は常識だし、読書家にとって名著のあらすじは常識だし、中学受験生にとって洋梨と桃の生産県上位ランキングは常識だし、ホストにとって口説き文句は常識だし、ギークにとってUNIXの知識は常識だし、スーツにとってビジネス作法は常識だし、教授にとって分野の動向は常識で、学生にとって楽勝科目戦略は常識で、主婦にとって昼ドラの主演は常識だったりする。

常識を疑えというのは勝手だが、KY論者、常識論者はなかなかどうして多様性を認めないきらいがある。自分の常識や信条の拠りどころたる「空気」を鵜呑みにしていると、ある日気づくと自分がKY側に立っている。気づいた頃には大好きな空気に包まれ、炎上すべくして炎上する。こういうのを日本語では昨日の友は今日の敵と言ったり言わなかったりするが、こういった殺伐とした、当事者にとっては裏切りにもとれる「メタ空気」が、安直なKY論を駆逐する。

これは一種の言論統制だが、法的効力があるわけではなく、単なる淘汰に過ぎない。炎上被害者にとっては酷な話だが、炎上して灰しか残らないようなブログは、淘汰論的にはそもそも必要でなかったということになる。ネット側は、気軽にはじめるというブログのキャッチに対するアンチテーゼとして、炎上しても続けられる、という一つの試練をこっそり用意している。それが淘汰ということの意味で、多様性と直面して試練を積極的に克服したKY論は真の価値をもつ。ロングテール化した1000万のブロゴスフィアにおいてアルファブロガーの燦然たる存在価値がここにある。多様性との対決をまだ見ない、空気に乗っているフリだけのKY論、KY論のためのKY論は、必要とされず弁護もされず、やがて淘汰に負ける。

こうやって本当に読むべき「空気」のクオリティが形成される。ひたすら直観に従って古い空気を読み続けるか、それとも本当の空気を見極めるかということが、際限なく増え続けるコミュニケーション手段を使ってうまく世渡りしていくキーになるかもしれない。

勢いで書いてしまったので自分でも何が言いたいのかよくまとめきれていない。書いた次の朝に炎上してたらと考えると、やっぱりいやですね。