"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

バイト

2年の秋まで、特に決まったバイトはしていなかった。せいぜい塾の緊急講師、日雇いの肉体労働と国際会館の弁当詰めくらいでどれも短期だった。このエントリの話と並行して半年だけ個別指導をやったが、それほどまでして何かを得たいと思わなくなってすぐにやめた。できればプログラミングに打ち込んで小遣いを稼げないかなと思っていた頃、友人が生協の掲示板で見つけたITベンチャーに彼と一緒に通い始めた。

オフィスは大阪にあった。大阪は好きではなかったが、日本橋に電子部品を買いに行く用事が多かったので交通費を稼ぐのにもちょうどよいと思った。地図を見ながら面接に行くとコーヒーを出してくれた。学生ベンチャーではなく、30,40代の脂の乗ったオッサンが5人ほどでがんばっていた。オフィスは広くてきれいだった。立地は地味だが、いい会社に思えた。

当然、興味のある言語などを聞かれた。社内はVB.NETSQL Serverで共通化していた。VB6の経験しかなかった自分にはちょうどいい勉強になった。講義でRubyを学んだのや基本情報技術者試験Javaを学んだのと前後して、OOのまじめなクラス設計を学んだ。

入った頃の社内は明るかった。よく保険会社や大手ベンダーが来ていて、勢いのある会社というのは疑うべくもなかった。業務には全く興味がなかったが、会話を小耳に挟みながらまぁ何かの勉強にはなると思った。バイトも少しずつ増えていった。女性社員も一人入った(Aさんとしておこう)。忘年会の頃には、20人くらいバイトがいた。Aさんも忘年会に来た。彼女以外は全員男なのによく嫌な顔一つせずに来るなと思った。忘年会は割と盛り上がった。細かい話は忘れてしまったけれど、会社を大きくしたいという社長の意気込みもなんとなくわかった気がした。

社員は仕事中によく新聞を読んで上がった、下がったという話ばかりしていた。本当かどうか知らないが、株で3億当てて親企業の子会社として独立したとかいう風の噂もあった。

ネット企業ではないので、業務パソコンはネットにつながらなかった。技術的なことは社員に聞けば親切に教えてくれるし、ブラックというほどきつい仕事ではなかった。ただ、業務内容が全く把握できなかった。コーディングは面白かったが、仕事はとことん面白くなかった。今自分が誰のために何を作っているのか分からなかったし、別に分かりたいという気にもならなかった。ただ余計なことを考えずVBの参考書を読んである程度の使い方を学ぶ日々が続いた。スキルアップできるのなら、文句はなかった。紅一点のAさんも会社に行く小さなモチベーションになっていなかったわけではない。

やがて社員がよく出張するようになった。社員が出払ってバイトが出社できないか、できても広いオフィスにAさんと自分の二人しかいない日も多くなった。

バイトがいる間は社員が会社にいなければならないので、留守番のAさんはたいてい、僕の都合に合わせていた。他のバイトのときもそうだったのだろう。自分が帰る準備を始めるとAさんも準備を始めるという感じだった。Aさんに悪いことをしているような気がしてきて、予定より早く帰るようになった。

不思議だった。会社が盛り上がっているのかいないのか、全くつかめない。社内の温度がわからない。会社ってこんなものなのだろうか。それとも単に自分が本気になれていないだけなのだろうか。社員はいない。Aさんもこちらから話しかけなければずっと黙って仕事している。よく見るバイトはせいぜい4,5人。バイト間のコミュニケーションもない。そもそも忘年会であれほどいたバイトは一体どこに行ったのだろう。やめたのかもしれない。自分は週二日ほどしか行けなかったので、会わなかっただけなのかもしれない。正社員の面接も何回かやっていたはずだが、新人が入ってきたのかどうかもよくわからなかった。ソース管理はVisual Studioの機能をしっかり使っているが、グループウェアはない。仕様の要求はあるが、その裏にある熱意が見えない。社内の様子が全然わからなかった。重要な情報をバイトから隠蔽するのは会社として仕方がない。避けられているとか、居場所がないというわけではない。人間関係の問題もない。上司はいい年ではあるがまぁサッパリしている。ただ、自分と会社は互いにまるで他人だった。

ある日業務中に、携帯メールが届いた。

「お前が好きそうなベンチャーがあるんだけど興味ないか?」

自分のブログを読んだ友人だった。中身を読んで、途端にこれこそ自分が探していた世界だ、という根拠のない勘に血がたぎった。いや全くなかったといえば嘘になる。自分は当時の業務には興味がなかったが、他の事にならたいてい興味があった。新しい世界にコミットしてゆくうちに、必然的に重心がそちらへシフトしていった。

場所が気に入らないという不満も大きくなっていた。界隈は閑静というよりは寂れていて、近くのカレー屋と、駅のそこそこ充実した書店で技術書を漁るくらいがささやかな楽しみだった。他にも京都でバイトに誘われていて、講義の後に電車で消耗しながら大阪まで行くことにそこまで魅力を感じなくなってきていた。

そういうことで6月いっぱいでやめることにしたよと云うと、誘ってくれた友人もじゃあやめると云った。彼は精神的に僕に結構頼っていた。そこに残ることが彼のためになるという確信もなかったので、まぁ勝手にすればいいと思った。

最後の出社日が近づいていた頃、二人しかいないときにせっかくと思いAさんに尋ねた。「Aさんはなんでこの会社に入ろうと思ったんですか?」Aさんはちょっと考えて微笑んだ。

「そろそろ仕事でも探そうと思って」

1年前の話だ。


ややだるめの回想エントリ。はてダ書いててこんなに空しくなったのは久しぶりです。