"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

「教育」の語感

スポーツでも研究でも仕事でも、チームに新しいメンバーが入ると、チームとして成果を出すためにいろいろとやらないといけないことがある。
そういうものを総称してよく教育という。
自分の仕事もそのようなフェーズに入ってきた。

ところでこれはほとんど語感の問題であるのだが、教育という語はどうも胡散臭い。

自分はチームで最も年少なので常に自分より年齢が上のメンバーに伝える必要があり、教育だと違和感がある。
もっとも、年齢の上下で使う言葉を変えるのは東洋的な考えに囚われすぎているかもしれない。
ほとんど年齢の上下が意味をなさないような領域もある。
生涯教育のように学習する側の人間のほうが年齢の高いケースもある。

本当の違和感は年齢の問題ではない。
教育というと「何か正しいと決まった真実があって、新しいメンバーがそれを刷り込まれる」という一方的、上から目線な語感がある。
大人が子供を教育するという場合でさえ、大人から子供への一方的な知識伝達が前提されているように思える。

ではどのような表現がよいのだろう。
自分は「共有」や「展開」という言葉がなんとなくいいように思う。

「共有」は「相手が同じ視座に立てる状態にする」という語感にとどまる。
足場が違う相手に対して、「おらよっ」と肩を貸してとりあえずこちら側に引き寄せてあげるイメージだ。
相手に対して一つの視座を強制することはなく、多様な視座の切り替えの可能性を残す。
相手は既存の枠組みに伍する自由も、枠組みを変えていく自由も確保している。
そして、共有される側だけでなく、共有する側の人間や共有の内容が、その過程を通じて変化することも許容している。
表現はなんでもよくて、別にスキルトランスファーでもオリエンテーションでもいい。
「現状ではひとまず正しそうだと思われる視座を伝えておく」という姿勢の問題だ。

自分の場合は現在の開発や運用の方法論などを伝える必要がある。
共有する側の視座が常に正しいとは限らない。
いま成功している方法が最善とは限らない。
新しいメンバーの視座を取り入れることで全体の方向性を変える自由度が残されている。

だが、「現状」ではなく未来永劫絶対的に正しいものなどあるのだろうか。
新しいメンバーは既存の枠組みに従って新しいものを生み出すしかなく、枠組みそのものを変えることが許されない状況などあるのだろうか。
人類のあらゆる知の中で「現状ではひとまず正しそう」のレベルを越えるものなどあるのだろうか。
相対主義的になってしまうが、「教育」という言葉で「正しいもの」を権威づけることには押し付けがましさが残る。

もっとも、「教育」という語も実際には「教育する側が試行錯誤を通じて教育される側から学ぶ可能性」も包含した表現であるのかもしれない。
しかし語感の問題にすぎないとしても、言い換えるだけで語感から新たに見えてくる何かがある。

「教育」より「共有」のほうがいいといってみた場合、企業社会であればそれほど困難なく受け入れられそうだ。
アカデミアはどうか。
企業社会とアカデミアで使う言葉を変えるということに正当な理由はないように思える。
常識的に教育と呼んでいる状況でも、思考実験として共有と言い換えてみたらどうだろう。

義務共有。高等共有。共有を受ける権利。共有学。

先に世界に足を踏み入れたに過ぎないメンバーが、既に発見しているものについての視座を新しいメンバーと交換しながら双方向に変化を与えていく柔軟な知性の姿が浮かばないであろうか。
*1

*1:語感の問題だとして、日本語以外、例えば英語ではどうだろう。比較的新しい言葉でもedutainmentというように、educationという語を意識から取り払って行くのは今のところ難しそうだ。単に洋の東西の問題ではないように思われる。