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"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

コルテスの海

コルテスの海 (プラネタリー・クラシクス)

コルテスの海 (プラネタリー・クラシクス)

美しい文章を拾い集めるのは、浜辺で美しい貝殻を拾い集めるのに似ている。

本書は百万遍の吉岡書店の自然科学コーナーで立ち読みをしていて出会った航海日誌である。一年後に訪れたときにふと思い出して店員に書名を告げると、在庫目録も存在しないにかかわらずものの10秒もかからずに本の場所まで案内してくれた。そうでなければ再び読むことはなく、拾える貝殻も拾えなかったかもしれない。

コルテスの海とはカリフォルニア湾のことである。この呼称には政治的に微妙なニュアンスが含まれるとも思うのだが、ここでは触れない。2005年に世界遺産に登録されていることからもその生態系の豊かさが垣間見える。

著者はジョン=スタインベックである。『怒りの葡萄』(1939)や『エデンの東』(1952)などの代表作に比べるとどう考えても埋もれてしまう本書に惹かれたのが何故かは自分でもよくわからない。スタンフォードの海洋生物学を中退したスタインベックは、イワシ漁で栄えるモントレーのキャナリーロウに住んでいたが、あるときクルー7名の調査航海に帆を上げる。1940年3月のことだ。

われわれの映画の酷さは筆舌につくし難い。とにかく、二、三千フィートのフィルムは具体的な「撮影べからず集」のオンパレード。ある映画研究所などはフィルムのコピーを喉から手が出るほど欲しがっている。カメラを扱う初心者向けの悪い実例としてもってこいだと思っているのだ。動物のクローズアップを撮るときに必ず光を遮る人影。きまって過剰か、不足気味の露出。あちこち慌ただしく撮影する気まぐれなパン・ショット。一番できの良いのは何にも映っていない延々と続く単調な空の映像という按配だ。

とまあカメラマンには恵まれなかったようだが、航海日誌であるから、敢えて手に取る人が当然期待する通り、海の生き物が大量に登場する。もちろん棘や毒のある動物との邂逅、突如荒れる海模様など、冒険譚の装いもある。せめてスケッチくらいあってもよさそうだが、その代わりに作家の筆になる精緻な著述が続いていく。だがあくまでそれは彼独自の思索をふんだんに盛り込んだ著述である。

科学者でない者は不思議なことに、科学的書物では高尚な完全主義が貫かれていると信じている。まったくばかげた思い込みだ。生物学者は、科学の尺度ではなく、その学者自身の心が見た尺度でレポートを書く。どの世界でも似たりよったりで科学の世界にも偉大な人物など滅多にいない。

海に対してよほどの尺度なり思い入れなりがなければ楽しめないだろうと思うだろうか。自分自身、モントレーの水族館や太平洋岸のビーチを楽しんだことはあり、それが読み始めたきっかけの一つではある。しかし、海の生態系にどうしようもなく魅せられているというほどではない、寧ろ貝や魚を除けばあまり触れあいたいとは思っていないことを断る。行ったこともないコルテスの海が秘する豊かな生命像に劣らず本書が読者を魅了するのは、7名のクルーの船上生活や人間そのものへの愛(と諦観)に満ちた視線なのだ。

道具の中で最も偉大にしてかつ人間的な船を造る時、人は代わりに船の心を授かり、船は人間の魂を受け取る。魂と感情の糸は船の奥深くに潜み完全に一体化される。ヴァイキングは、自らの亡骸を横たえた船を送り出して、葬ってもらうのを理想とする。船が、なくてはならない存在だからだ。それがかなわぬ場合には彼がもっとも愛するもの、女達と船だけを道連れにする。海岸で燃えさかる大きな炎の中で三者は少なくともそろって同じ方角に旅立つのだが、その灰が集められた時どこまでが男あるいは女で、どこからが船なのかは何人にも指摘できまい。

しまいには言うことをきかない船外モーターでさえ人格を与えられ、機会さえあれば憎まれ口の標的となる。船に寄り来る魚に銛を投げ、磯場を中腰で歩き回り、現地の子供に小遣いをやって手伝わせ、夜の港町で騒ぎ、島々を渡り、魚を焼き、標本を作り、酒を飲み、口論し、本を読み、思索にふける。

優れた仮説には大きな問題点がある。完璧に出来上がり隅々まで行き届き、内容的にもまとまって筋が通ると、一つの完成品、芸術作品になりかねない。完成したソネットや絵画さながらだ。誰だってとてもそれを壊す気にはなれない。たとえ理論上の欠点が見出だされても、かつて完璧で美しかったがゆえに粉砕するのに二の足を踏む。

他にやることがなく、全てが順調でもない海の上で、メキシコの役人や先住民との文化の違いから、泥沼化する日本との戦争、物理学の大統一理論に至るまで、クルーと幾度となく意見を戦わせただろう。かと思えば彼はひとり大自然との静かな対話の中でダーウィンを引く。

夜遅くビーグル号にのってヴァルパライソ湾に到着したチャールズ・ダーウィンのことが脳裏を横切る。翌朝、目を覚まして海岸を眺め、その爽快な気分を次のように記している。「朝になると何もかもが喜びに満ち溢れているように見えた。ティエラ・デル・フエゴを経た後では、ここの風光はこの上なく甘美だ。乾いた大気。燦々と輝く太陽。青く澄みわたる大空。大自然が生き生きと躍動しているようだ」ダーウィンはヴァルパライソを描写したのではなく、むしろ自分について語ったのだ。博物学者として「大自然が生き生きと躍動しているようだ」と表現したが、実際に生き生きしていたのは彼自身に他ならない。

博物学を専門としない彼が先人ダーウィンの内面や自然への愛と自身のそれとを重ねあわせていたかどうかまではわからない。一方、彼が科学、哲学や社会への思索や彼自身の内面に踏み込むのを読む我々は、猛烈な既読感に襲われる。まるで我々が夜更けにブログを書くときのようではないかと。

思い起こせば、logとはもともと船の速度を記録するために海面に垂らした丸太(log)のことであり、そこから航海日誌(logbook)のことを指すようになったのだ。我々の綴るweblogやlifelogはいわばlogbookの末裔であると思えば、The Log from the Sea of Cortezに対して不思議な感情移入モードに入ってしまうのは自然なことかもしれない。

もっとも、スタインベックにそんなことを話したとしたら鼻で笑われよう。

ダーウィンの著書には、彼の思考のごとく帆船の悠然とした上下動があり、潮を待つ辛坊強さが見られる。成果にはペースが反映する。もはやわれわれが帆船に乗り込んだとしても、同じ成果は望めまい。現代の書物のスピードやテンポや語り口は神経質なタイプライターのカタカタいうせわしない音によって造られたとも言える。

まして、圧倒的な情報に押し流されていく我々が垂れ流し、そして忘れ去っていくものが何なのだというだろうか。その中に一瞬の輝きを放つ貝殻があるのであれば、それでよいのかもしれないが。