"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

イスラムを考える

10月上旬に知人とモロッコ旅行を計画していた。イスラム圏への旅をしたことがなかった。僕にとってはイスラムとの接点といえばパリやコルドバで見たモスクくらいだ。旅好きならメルズーガの大砂丘やシャウエンの青い街の写真を見て全くそそらないという人はいないのではないだろうか。さらに言えば、今年はこの時期に、犠牲祭というイスラムの祭典があるのだった。街中で一家に一頭羊を殺し、神に捧げるという、東京の我々からみるとなかなか衝撃的な儀礼だ。

ヒッチコックの『知りすぎていた男』を見たりして楽しみにしていたのだが、ニュースを見れば誰でも思い当たる二つのリスクをみて旅行を中止した。一つは国境を2,3つ越えた隣で蔓延しているエボラ出血熱だ。観光立国のモロッコはおそらく西洋同様に医療インフラが整っているだろうから気にしすぎかもしれない。もう一つはシリア・イラクで台頭するISISだ。ちょうど日本人の湯川さんが問題になり、モロッコ人の影がちらつき始めた頃だ。その後、過激派への合流はモロッコに限らず欧米や日本人にも及んだのは周知の通りだ。

もちろん僕自身はイスラムそのものが危険だという認識はもっていない。受験の世界史でもイスラムを学んだし、ルネッサンスや近代科学へのイスラムの影響も理解しているつもりだ。

しかし、あまりに実際のイスラムのことを知らなさすぎて、恥ずかしながらリスクを払いさることができなかった。高校卒業まで15年間カトリックの環境にいたのでカトリックはなんとなくわかるが、同様に大きな人口を背負ったイスラムは、全くよくわからない。

旅は世界への接し方を変える。他人ごとだったものが急に身近になり、生彩を放ち始める。 春に行った台湾、香港、マカオは、もうご近所になった。ならば、旅をしないことでイスラムのことを知る機会を失うのではなく、これをきっかけに少しずつ勉強していこうと思った。

どうしてのんびり旅をするというわけにはいかなかったのか。足を踏み入れたかった平和な世界まで、一体どの程度の距離があるのだろうか。

同様に日本、世界で多くの人が、おそらく今ニュースを見て改めてイスラムについて知ろうとしているだろう。ムスリムの知人もいなくはないがなかなか会えない。自分の性格上はまずは読書から入るのがよさそうだ。

そんなこともあって巡りあった3冊の本の記録を残しておく。いつかまた訪れる出会いのために。

イスラムの現在を考える

ポップなタイトルに抵抗があるかもしれないが、恥を忍んでも読みたいゼロからの入門書だ。

イスラムの基礎を丁寧に教えて我々の警戒心をひもとき、アラブ=中東=イスラムというステレオタイプをほぐす。そのうえでイスラム金融アラビアのロレンス、日本人とハザラ人のようなトリビアに至るまで、我々日本人にとってイスラムとはどんな接点があるのかを少しでも多く伝えようとする思いやりが読み取れる。

風雲急を告げる中東情勢に対応すべくタイムリーに出版されたという感はもちろん否めないが、その話題に終始することなく、イスラエルエルサレム)、トルコ、ナイジェリア、カタールレバノンアフガニスタンからアラブの春まで、イスラムが各地域でどうカスタマイズされ何がどうなっているのか、手広く知ることができる。イスラム圏の現在の情報を手に入れるためのベースとして読みたい。

イスラムの過去を考える

さて、イスラムにはスンニ派・シーア派と大きな流れがあるのはいいが、当のムスリムたちはいったいどのような精神性をもってそのような文化を受け継いできたのか。

イスラーム文化−その根柢にあるもの (岩波文庫)

イスラーム文化−その根柢にあるもの (岩波文庫)

本書はこのような好奇心に対してより豊かな理解を提供してくれる。

精神面といえばまず、イスラムと砂漠という先入観は切り離しがたい。現代において必ずしも適切な記述であるとは思わないが、和辻哲郎によれば砂漠的人間は、(エドゥアルド=マイヤーという著述家を引いて)「思惟の乾燥性」「意力の強固」「野獣的残酷さ」「道徳的傾向の強烈」「感情生活の空疎」「実際的」「意志的」といった性質で類型される。アラブ人はもともと、砂漠的風土で結束して生きるために、部族対抗的であると同時に、部族へは服属的であった。ムハンマドはこの部族への服属性を人格神への服属性(イスラムとは服従を意味する)へ昇華したにすぎない。

しかし井筒によれば、ムハンマドの革新性は、さらに進んで神への信仰こそを社会構成原理とし、血縁という部族的連帯性をdisruptしてしまった点にあり、ここにはアラブの伝統的精神との訣別があった。(アラブ的ならざるものは、イブン=ハルドゥーンの連続的な史観にも同様に現れる。)

本書はムハンマドの預言者としての生涯を、内面の実存を育んだメッカの10年と、イスラムを共同体として強固にしたメディナの10年とに分け、そこからムハンマド以降のイスラム的なるものの一切がコーランハディースの「解釈学」であるという視点を一貫しながらイスラムの様々な精神的側面を展開する。

シーア派スーフィーのような、幻想的、悲劇的な精神を帯びた、内面への徹底した深化。神の絶対命令の真意をめぐり、命令法の研究を中心とした異常な発達を早々に遂げる独自のイスラム哲学・論理学。イスラム世界の秩序を守るために私人による聖典の解釈と法的判断(イジュティハード)を禁じ自由を殺した過去の歴史。そして、その閉じた扉をいかにして再び開き、欧米的な政教分離とも距離をおいたまま近代化することができるかという課題を積んだ現代イスラム国家。

本書の元になった講義を想像させる、温かみのある文章だ。

イスラムの未来を考える

この流れでのSFアンソロジー『バベル』は一見唐突であり、さらにその中の表題作『バベル』との出会いも単なる奇遇であるが、まさに今をおいてほかに紹介すべきときはない。

舞台は主人公の住むカイロと、映画『ブラックホークダウン』や最近の『ソマリランド』で話題をさらったソマリアだ。テロとイスラム社会の末路に苦悩しながらも前向きな等身大の主人公たちが開発するAIは、恐るべき精度で現実社会を予測し続け、希望に満ちた成功を約束してくれるはずだったが…。

アフリカの角に突き立つ軌道エレベータといういかにもSF的なオブジェをバックに添えつつ、イスラムの現実をなぞるようにテロが埋め込まれたままの社会に、ようやく我々の現実を紡ぎ始めた3Dプリンタを投下する。日本人の想像力でイスラムの近未来をできるだけ没入感たっぷりに生々しく描こうとする野心的な一作。

主人公たちはソースコードにより世界を記述する。さらに想像を続けると、レッシグのいうように法もコードであるならば、イスラム世界を統べるイスラム法というDNAの指令に忠実に動くようなアーキテクチャの考察が仮にあっても面白い。それは読者の想像力に委ねられている。

もちろんイスラムとは全くそれるが、円城塔や野﨑まどといった脂が乗った他著者の作品も、ギャグ的な違った味があったりするのでお楽しみに。