"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

内面の清算

シリアで戦闘行為を行っていた過激派日本人の鵜澤氏の話を聞きに行った。まあ、これだけ書くとぎょっとするかもしれない。三文会という毎週行われるイベントのスピーカーが、鵜澤氏だったので参加してみたのだ。
10/15【イスラム原理主義組織で戦った26歳のシリア内戦体験談】 • 三文会
イスラムについて勉強していた頃だ。

興味をもった理由は講演の内容以外にもあった。鵜澤氏が以前関わっていた「アーバンマルシェ」という会社をみて、はっとしたからだ。
~全ては「美味しい」から~アーバンマルシェ公式ブログ 最後のご挨拶。
たまたま数日前に後楽園駅の近くを歩いているときに、車で野菜を売っているのを見て、気になっていたのだ。

結論としてイスラムの現実は彼の話からは全く分からなかったが、ここは僕のためのブログなので、メモ程度に残しておく。

会場が東大正門前のカフェ『モンテベルデ』であることから想像できる通り、聴衆のリテラシーは平均的な日本人より高いと思われるのであまり心配はしていなかった。普段からパレスチナ問題に関心が高かったり実際にイスラムの研究に勤しんでいる人たちも多かった。寧ろ、このようなやや物騒なテーマでも会場提供を拒否しないモンテベルデの包容力に敬意を表したい。

さて、彼の話に価値に少なくとも希少価値は認められるだろう。普遍的倫理的な価値はともかく。たとえ一面的であったとしても、現地の生活や、アサド政権への現地感情、戦場で死に瀕したときの開放感など、ひょっとしたら一生聞けないかもしれない体験談は確かにあった。

また彼の第一印象でいえば、応対態度は紳士的であり、笑顔やユーモアを忘れず、よほど立派な社会人ではないかとさえ思える人だった。まあこのあたりはマスメディアやネットメディアの限界だろう。

にもかかわらず、講演はやはり息の荒い質疑応答でかなり中断した。僕の知人がやりとりの結果、不愉快を顕にし、講演半ばに会場を去るという一面もあった。参加者の大半、そして鵜澤さん自身も(通常の講演ではありえない)その行為にも理解を示しているようにみえた。それだけの異常な講演であったということだろう。

小さい頃にいじめにあっていたとのことだが、自分自身を試したいという極限状態への渇望が、いかにして彼をシリア渡航へ駆動していったのか、我々の大半には理解不能だ。それは例えばスポーツであってもよかったはずだ、と僕は質問したが、彼にとってはそうでなかった。それは生命の応酬を要求する戦闘行為でなければならなかったのだ。彼の話から僕が唯一悟った、というか再認識したのは、「結局、他人とは理解できないものだ」ということだった。

仮に彼がもっと人を舐めた態度で接するような人間(実際そういう人は枚挙にいとまがない)であれば我々も彼を何の遠慮もなく憎むだろう。だがそうではない。彼は一見して無害だ。彼の表面的な人格と実際の行動は乖離している。そのことが、余計に我々を戸惑わせ、不安を駆り立てる。「我々はいつの間にか騙されるのではないか」と。これは単純なリテラシーの問題だ。納得できる不安要素がないことは却って強い不安を煽る。

できるなら、僕はこの抽象的な不安とは距離をおきたい。北大生のケースと違い、イスラム国と関連付けて議論される日本の若者の閉塞感や貧困に対するルサンチマンは彼の背景には存在しない。彼は一切の社会問題と無縁であり、ただ自分の内面の問題を清算するためにシリアへ行ったのだ。

彼は何らかの思想に基づいて同胞を戦場へ誘うことも、過激派の同志に共鳴することもしなかった(だって彼自身の問題なのだから)し、今後も決してしない、それどころか戦争には最早興味がないだろう。死の淵から生還し、感謝することを知った今の彼には戦争とはかけ離れたビジョンがあるという。それは単体ではそこらの社会起業を目指す若者の輝かしい夢と大して変わらないし、敬意をも払いたい。

しかし、好戦家が国民的指導者として歓迎されるようなイスラエルや米国ではともかく、日本で彼が過去を背負いながら全うなサポートを得るのは不可能とまでは言わないまでも茨の道だろう。僕自身、彼に対して中立的に接することは難しい。今のところはこんな感じだ。また考えを整理する日が来るかもしれない。