"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

思考の壁というものが時々現れる。 明確にパンクする。 これ以上は無理だ、となり、視野が暗くなる。 起業したり新しいことに挑戦しないのか、とよく言われる。 ああ、こんなに簡単に行き詰まるのなら、自分には無理だと思う。

壁は常に存在するわけではない。 ある問題には最適化して価値を発揮できることは確かだ。 確実にできることだけやっているときにはむしろ、壁は立ち現れない。 壁が現れるとき、 自分自身に対して、今はできないこと、できること以上のことを求めていることが多い。 好意的にとらえれば、成長痛のようなものだろう。 壁が現れるのは数年に一度だ。 少ないかもしれない。 何を壁と明確に認識するかの閾値の問題なら多寡を問うても仕方ない。

壁とは何なのか。 時間をかき集めて、仮想の壁を解体してみたい。 思考の壁は アルコールや運動のような発散によって一時的に不可視化することはできるが、 思考そのものによって解体するのが本質的であろう。

これは何かの結論を出したり、読者に何かの示唆を与えたり励ましたりすることを意図するものではない。典型的な悪文、というより文章の体裁さえとっていない。 自分自身の認識や思考におけるネック、ざっくり言えば生きづらさ、のようなものを明解にしようと試みるものだ。

筋が悪い、と時々言われる。自分でももっと頭がよければと思う時がある。どういうことか。

仮説がない

ゴールがわからない。 何をしたいのかわからない。 仮説検証のプロセスを踏んでいない、もしくは形式的に踏んではいたが腹落ちしていない。 なんとなく迷走状態に入ると、これはよくないな、というメタ認知が駆動しはじめる。 迷走していることすらわからなくなると、もう一段危険だ。

仮説が悪い

これは一般には、仮説検証の過程で回収できる損失である。 あくまで仮説であるので正しいとは限らず、反証されることによっても結果的に知識体系を拡大することに貢献する。

戦略が悪い

平たく言えば要領が悪い。 ゲームでさえ、レベルアップは今でも下手だ。

大きな目的ははっきりしているのだが、そこに至るまでの通過点の設定が悪い。 必要な知識か、思考のいずれかが足りない。 ルールの理解が遅い。 短期的な現状と大局の間で視座を切り替えて確認することができない。

時間感覚が麻痺している

時間見積もりの精度が悪い。 時間を測っていない。 気が付くとずいぶんと時間がたっている。 過度の集中力の裏返しとして、時間内に終わらせるという目的を忘れる。 実際にかかった時間が、次の計画に活かされない。

完璧主義

理論や方法論、設計、実装、成果物の美しさに固執する。 効率的でないアプローチを選択する。 効果の薄いポイントにエネルギーを注ぐ。 攻略本を読んだり検索したり人に聞いたりという適切な情報源を使わない。 美しいもの、完璧なものが高く評価されることの悪弊ではある。

立ち向かっているテーマが多すぎる

パンクしているのなら、一つこれは疑ってよい。 選択と集中、断捨離に舵を切り直すべき地点がどこかにあるとして、 それがどこなのかを見極めるのは難しい。 仮にわかったとしても、引き返すには既に遅いという状況もある。

テーマが多いというのは、時間がないということの言い換えでしかない。 時間がないと言い切ることには抵抗がある。 時間が限られているのは自分だけではない。 時間の問題とは、本当は時間配分の問題、 何をどれくらい、どのように戦うか、という問題だ。 リソース配分の戦略が悪い可能性もある。

アントレプレナー自己啓発のシーンでは、 分野を絞らず何にでも挑戦する人の話には事欠かない。 そして、多産な人の話は面白い。 いろいろな経験や知識が頭のなかで活発で有機的なネットワークを構成している。 何かを切り捨てなかった他人と、何かを切り捨てた自分との比較が発生し、 こういう人になりたいと思う。 多産主義・学祭主義への傾倒が生まれる。

テーマが増えるとテーマごとにかけられる時間が短くなるのは自明の理だ。 しかし、テーマ自体を絞ることのデメリットを考えると切り捨てることができない。 それは視野狭窄への第一歩となり、望ましいことではないからだ。

理解へのこだわりが弱い

とくに自分以外の人間の間で共有できているものが自分だけ得心しない。

周りの人間の暗黙知に対する違和感。 とりあえず話を途切れさせないために、わかったふりをする。 これは自分をも欺き続けるので、限界がある。

人の言っていることがわからないのは異常ではないのだと気付き、 「よくわからないから、ちゃんと説明してくれ」と言えるようになれば改善だ。 一言、「というと?」「具体的で言うと?」「XXという言葉を使わずに言うと?」とはさむだけでよい。(自分自身との対話においても有効な戦術だ)。 それを深堀りする時間がない状況なら、わかったふりをしないで、後で勉強する、というのを徹底する、というのがある。

この手の理解力のなさであまり苦労したことがない(正答率さえよければとりあえず問題が発生しない)から、 「わからない」ことじたいがよくわからないということはある。 自分の場合は、数式や論理に基づくものは時間さえかければ理解できるという確信がある。 それを「わからない」ということは、単に時間をかけることを諦めただけだ、としか解釈できない。 だから科学やエンジニアリングに関わることに安らぎを見いだせるのだろう。

自信がないのは、視覚、聴覚、味覚といった感性的、美学的な問題だ。 この「わからなさ」をより深く分析してみるのもありかもしれない。

最後まで実現するのか、という問いへの答え

メンバーや資金、場所、情報といったリソースを集めて新しいビジネスや研究を始めるときに求められるのは以下のような要素だ。

説得力がない

フィージビリティを客観的、絶対的に示す方法はないケースのほうが多い。 たいていの話は論理的には穴があり、いくらでも細かい突っ込みは可能だ。 筋が通りきっていない不確定な話を、さもありなん、と思わせる力は、仮に狡猾ではあったとしてもこれはこれで重要だ。

人生やプロジェクトのストーリーの一貫性(integrity)もここに含まれうる。 あちこちに伏線を張って回収しない小説のような行き当たりばったりなストーリーは、魅力的であると同時に、それに賭けようとする他者の心を遠ざける危険がある。 (もっとも、学者人生の前半と後半といったように大きな転回を行う人も、哲学者などに散見される。)

真摯さ、意志、コミットメントがない

意志が強い人は結構だが、 問題を意志だけに帰するのはひとつの思考停止だ。 挫けるときはある。 モチベーションに依存しない生き方というのがあれば、なおよい。

全力を傾けて精神を限界まで消耗した先の惨敗は苦い。 「がんばっているからいい」「十分がんばった」では物事は回らない。 社会が重要だとみなすのは、 挑戦や努力や真摯さそのものではない。 失敗を繰り返してでもそれを克服して成功を導き出す力だ。

コミットメントという言葉には謎の響きがある。 問題に対してYesとNoを選ぶ能力、それを回答する能力、そしてそれがYESであれば、その回答に対して忠誠を誓い遂行する能力としておこう。 こう書くだけでも複合的な能力であるように思える。

楽しめていない

壁を越えることを楽しめないよりは楽しめるほうがよいのは言うまでもない。 この是非は、立場によっても変わるだろう。 同じことでも、以前は気軽で楽しかったのに、重責を負うと辛くなることはよくある。

楽しさと辛さの間の壁こそ、メタ認知的に克服するべきものかもしれない。 十分に距離ができた過去の辛さを笑い話にすることは簡単だ。 これを現在の辛さに対して行うことは、比較的難しい。 例えば、辛くなったときに、その辛さをあえて楽しいと言ってみる。

こうして思考の壁を解体するプロセス自体が、 継続的なモチベーションを要求する一つの実験であると考えられなくもない。