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"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

ブログを始めて10年経った

thought

自分がブログを開設したのは2005年の5/19、初めて何か書いたのは5/21ということになっている。 初めから10年続けようと思っていたというよりは、気がついたら10年経っていた。 全然書かない時期もあった。 今10年を振り返って一番面白いのは自分だろうし、このエントリを10年後に読んで一番面白いのも自分だろう。 この手のエントリは油断すると老害化するものだが、他人の参考には恐らくならないだろうという注意書きを添えたところで、段階的に振り返ってみる。

2005年〜

最初のエントリは「大学に入ったし、新しいことを始めたい」という単純な意志表明だった。 同期に誘われmixiも始めていたがブログの方がデザインなど色々カスタマイズもできて面白かった。 サービスはいろいろあったが、割とメジャーだったgooブログにした。 内容はだいたい大学の講義、バイト、読んだ本やサークルの活動、言語について(これは今でも時々書く)が多かった。 国語の授業や試験で物を書くのは大嫌いだったが、好きなテーマを好きなように書くのは好きだということがわかっていたので、ブログの手軽さもあって更新頻度と文章量は膨れ上がっていった。 2001年ごろ始めたホームページのメンテは続けるつもりだったが、すぐに廃墟化した。

2006年頃、ライフハックや生産性の考えに興味が出てツール熱に拍車がかかった。 Gmailのアカウントをとり、ウィルコムスマートフォンW-ZERO3 を買った。 『ウェブ進化論』でシリコンバレーという地域のことを知ると同時に「一億総表現社会」という考えに触れた。自分のブログをgooからはてなに変えた。 サークルでもHPの管理をしていたが情報発信の手段は開放されるべきだとBloggerのブログを開設した(今でも現役部員による更新が続いているようだ)。

2008年〜

研究室生活が始まり、同時にはてなのバイトとしてコードを書き始めた。 iPhoneTwitterのタッグによりコミュニケーションの様相がだいぶ変わった。 ハチロク世代のような新しいもの好きのコミュニティに顔を出し、 2009年には専攻のはてなグループを作ってみた。

刺激の内容は深化してブログに書くことも増えそうだが意外にも激減した。 無理に理由づけすることもないが考えてみると、

  • バイトに研究に、コミットの形式が分散するようになった。ウェブやソーシャルの波を意識しながらコミュニケーションの試行錯誤をする中で、ブログはone of themでしかなくなった。
  • 刺激が多いのに満足し、内省に回す時間をとらなかった。
  • 優秀な知人に恵まれ、書くのが恥ずかしくなった。

といったことがありそうだ。

2011年に社会人になって、ますます好き勝手書くのは控えよう、となった。 どういった理由にせよ、書くこと以外に割く時間が増えたのでもなければ、書く量を減らしたことによる恩恵はない。 仕事を中心とした様々な経験があった一方で、記録されたもう一つの自己であるこのブログにとっては、失われた時間とも思える。

2013年〜

ブログに書く量が少しずつ回復してきた。 2014年からは、週に一度は文章というより自分の時間の使い方や考えたことを振り返って書くことにした。 正確にはEvernoteやSlackにメモしておいて週末に振り返っている。 ほとんど書くこともない週もあるが、もし一週間を無駄にしたのであれば、それを自覚するよい機会にはなる。

これまでのところ、ファクターとしては刺激と内省のバランスが重要で、ブログが書けないほど刺激に偏るのもどうかという感じである。 またどこに書くかでいうと、Twitterは手軽だし読むにもまだ飽きないのだが、それで散逸しきった思考の再構成を行う場としてブログは依然有効だと思えている。 Facebookでも長文は書けるが、ソーシャルなフィードバックが欲しいというのとは何となく違う。

書くことについて、ややエゴでドライな観点を取り戻したように思える。 自分で考えたことは、自分で残さなければ、二度と戻ってこないかもしれない。 自分が書いたもので誰かを傷つけるのでないのなら、残してやろう。 忘却の喪失感よりは、生き恥を選びたい。 何の価値もないと思える文章でも、書く。 もし文章にならなくても、書く。 そうやって、淡々と書き続ける。

今後

物を書くときに一言「ポエムです」と添えるのが少し前に流行り、 ポエムであることを自覚しているということを言明するプロトコルとなった。 自分のブログの内容は、メモを除けば一貫してポエムであるといえる。

だが、ポエムであるかないかは実際のところどうでもよい。 人を動かすポエムと人を動かさないポエムが存在するというにすぎない。 そして人を動かすポエムのほうが重要かというと、まあそうでもない。

文章を残す目的は人を動かすことだけではない。 自分の場合の目的は何なのか、ついでに考えてみる。 一つには、どのような思考過程が可能なのかという整理を、書くことで行っていきたい。これは自分のためだ。頭のなかがもやもやしている状態を放置するのは、気持ち悪い。 人を動かす以前に、自分自身を混乱なく駆動せねばならない。

もう一つには、何かを残すという行為そのものに、単なる一市民のものであっても人類学的な価値を認めている、というのがある。 近世の哲学者や文豪のように、死んでから書簡の内容を全公開されるような時代でもない。何を残すかは、少なくともそのときの自分の意志でコントロールできるのだ。 西暦2015年の人類が考えていて2025年の人類が考えていないことがあれば、前者が残したものは貴重なアーカイブとなるかもしれない。それは2005年当時、1995年当時のインターネットを見てみればある程度当たりがつく。

しかし、結局のところ「書くことについて考え、考えることについて書く」という営みには、そのような大仰な理念以前に根本的な中毒性があるのかもしれない。 文章を紡ぐという脳機能が機械化されるまでは、機械のように続けていくだろう。 飽きっぽい自分が10年経ってもまだブログという同じ型式でそれをやっていることに、ひとまず驚きのような感慨のようなものを覚える。 それにしても、「何らかの物語や思想やミームを、それが死ぬ前にどこかへ複製してしまいたい」という、ナマの、ある意味血みどろのこの衝動は、どこから来るのだろうか。不思議なものだ。

Schreibe mit Blut: und du wirst erfahren, dass Blut Geist ist. ( 血をもって書け。 そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう)- フリードリヒ・ニーチェ