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"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

コーヒー

もらったコーヒー豆をどうにかしようとして、家でいれることにした。 何年も前に研究室の大掃除でもらったコーヒーマシンをためしに引っ張り出すとまだ動く。

さて、いれたコーヒーがうまいのかどうかはよくわからない。 缶コーヒーは嫌いだということを除けば、本当に申し訳なくなるほどよくわからない。 ダイエットのために同じコンビニの卵を連日食べていたらロットによる味の違いがわかるようになった、と友人は言う。 事実はさておき、そういうこともあるものだろうか。 毎日自分でいれたコーヒーを飲んでいたらコーヒーのうまさについて考えが深まることも少しはあるだろうか。

そのようなことを考えながらものを読んでいると、このようなくだりがあった。

自分がコーヒーを飲むのは、どうもコーヒーを飲むためにコーヒーを飲むのではないように思われる。宅の台所で骨を折ってせいぜいうまく出したコーヒーを、引き散らかした居間の書卓の上で味わうのではどうも何か物足りなくて 、コーヒーを飲んだ気になりかねる (寺田寅彦 コーヒー哲学序説)

思わぬ絶妙な記述ににんまりとする。 逆に言えば、素敵な環境で飲むコーヒーは、味はともかく、無条件にうまいのである。 何も目新しいことは書いていない。 70年前の文章にこういうことが書いてあるということが意外だったのだ。 これはある種の普遍的な理を表しているのかもしれない。

自分の場合、自宅にいて自分の時間をいったん確保しても、すぐにベッドに横になってしまうのがオチである。 なんとなればSoundCloudをかけて自分好みの雰囲気で仕事をすることはできる。 ついでに自分でコーヒーをいれるのは、この怠惰に抗うささやかなカウンターとなるかもしれない。

芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言ってもいいかもしれない。これによって自分の本然の仕事がいくぶんでも能率を上げることができれば、少なくも自身にとっては下手な芸術や半熟の哲学や生ぬるい宗教よりもプラグマティックなものである。 (同)

寺田寅彦はここでは、単にコーヒーの生化学的な効果を讃えたのだといえる。古にスーフィーが知ったコーヒーもそれに近いだろう。

しかしもちろん、それが全てではない。 うまいコーヒーが飲みたいというのは本当は二の次で、コーヒーを飲む場、その場で行われる会話もまた大事なのだ。

普通の職場において、相手や周りの人間の都合をさしおいて本業以外のどうでもよろしい会話に堂々と従事するのは難しい。 いや、会話に限らない。 喫煙の営みを非難する嫌煙家ではないことを断る、むしろ煙草を愛する準備はあると言いたいが、しかしなお、非喫煙者がぼうっと思索にふける権利を行使する場所が少ないのには納得がいかない。 喫煙者が喫煙室で漫然と過ごすことを咎める人は少ない。 そのような場所を遠慮せず用意する理由があるとすると、喫煙者はいまや少数派であるからその程度の発散行為は黙認できるということであろう。 これは発散したければ紫煙をくゆらす少数派に加わるしかないというおかしな状況だ。

閑話休題

日本はまだしも、海外のカフェに一人であればさらに緊張感が増す。 しかしあえてノイズの多い街に出てまで、自分の人生を一歩引いて眺め、あるいは有意義に使う時間を作ろうとするのが、人の性のようである。 学生時代を振り返ってみても、京都の町家でよく人を集めていたとき、そのような場を使うだけでなく、自らデザインしたいと考えたこともあったのを思い起こす。

サードスペースの呼び声を待つまでもなく、サロンやコーヒーハウスがビジネスやジャーナリズムの舞台としていつの間にか当たり前になった頃から、革命を準備する空間としてもカフェは存在した。 これからもまたそうであるのだろう。 一方、コーヒーの生産から消費に至るまでの道のりでさまざまな歴史の闇が発生したし、コーヒーが完全に幸福の嗜好品であるとは現代においてもまだ言えないだろう。

酒や宗教で人を殺すものは多いがコーヒーや哲学に酔うて犯罪をあえてするものはまれである (同)

はてさて、少し呑気な言であると言いたくもなるが、誰にも文句をいわれずに楽しめるのはコーヒーくらいでちょうどよいといわれれば、大いに頷ける。

というようなとりとめのない随想を、やはりコーヒーを飲みながら嗜むのだ。