"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

認知特性の話

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参考文献も読んでないし専門性もないのだが、自分自身の意識や認知のパターンを観察・記述するのはメタ的で面白いのでやってみる。 マインドフルネスをやるにしてもこれを知っておくのは有意義であると勝手に思うことにする。

自分は文章に気を使う人だと言われることがあり、自覚もある。 とはいえ、文字に起こすのはかなり意識的にやっていて、少なくとも先天的ではない、むしろ自然に反する行為とも思える。 普段から文字で考えているわけではない。 大部分は文字になる前のとらえどころのない「原思考」みたいなものがときどき脳内に漂っている。

それらは文字でないのみならず、音声でも映像でもない。 棚とか袋とかいう例えもいまいちピンとこない。 表現を無理に試みると、概念のネットワークの一部が現れたり消えたりしているような感じだ。 脳内のどこかが発火していて、脳内の別の何か、あるいはどこかにあるイデアにつながっている。

意識化したそれらが再び無意識へ逃げ戻る前に、 何につながっているのかというネットワークの周辺構造をヒントに必死でたぐり寄せ、文字に起こして残しておく。 自分の場合、これは音声ではうまくできない。 話しているうちに整理されるケースも確かにあるのだが、必ず相手が、それもこちらが心おきなく話せる相手が必要だ。

こういうことを映像や音声でうまく伝えられるといいのだが、自分は文字より適切な手段を持ち合わせていないので、もどかしく思うことがある。 マインドマップやイラストも悪くないのだが普通はペン(に類するもの)と紙(に類するもの)の両方が必要だし、スマホを持っている限りほぼどんな状況でも出力できる文字に思考がだいぶ偏っている。 とにかく相手がいないときは文字でやるしかない。 この文章にしても、図解する気は1ミリとてない。

文字にしてつかまえただけの思考にはだいたい論理関係がないので、並べ替えたり曖昧な語を置き換えたり無駄な語を減らしたりする。 たった今もやっている作業だ。 自分の書いたものを見なおしているうちに、なんだたいしたこと考えてないなと思う時も多い。 仮説や結論の周りにパーツを配していくようなプラグマティックな思考体験が自分の中で成熟していないのだろう。 そのため、時間をかけたわりには論点がわからない文章も量産される。

この推敲の段階は、人に読んでもらう、思考を世界に送り出すための標準的な文章構成技術で、ルーチン的でつまらないと感じる時もある。 本当に面白いのは、まどろみの闇の中から湧き上がってくる、人に伝えられるかどうかの境界にある原初の思考なのかもしれない。 このメタ思考も、文章にしたことで真実なのかどうかよくわからなくなってしまった。

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