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"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

北極海航路の話

先週、面白そうなセミナーを教えてもらったので聞いてきた。

概要

温暖化で北極の氷が溶けて新しい航路(NSR,Northern Sea Route)が開けるので活用できないか、というテーマで各方面の議論がなされている。 ゴルバチョフNSR開放以降、船舶種類(アイスクラス)に関するロシアの規制緩和もあり、活用が増す見込みである。 トランジット(横断輸送)が主だが、クルーズや研究船の需要もある。

これだけ書くと温暖化で喜ぶ人たち、という印象になってしまい批判もある。 フェアになるように書くと、NSRの活用で燃料資源の消費が減り、資源輸送のための陸上パイプラインの開発に比べても環境影響が小さいとのこと。

インド洋航路が海賊問題をかかえる一方、NSRの優位性は(燃料価格の影響もさることながら)ロシア情勢に大きく依存し、短期的には逆風もある。

日本の立場

日本は地政学的にNSR発展の影響を受けやすく、また実は北極海探査の歴史もある。 内閣も日本初の北極政策を発表したばかりである。

覇権史における北極海の意味づけについてはより専門的な記事*1に譲るとして、かなり多岐にわたるトピックがあったので、実際の航行に際してどういう問題を解く必要があるのかを外野からどうにかこうにかサマリする。 資料もそのうち出揃うはず。 (誤った理解があればごめんなさい)

氷況観測

氷海船舶には耐氷船と、海氷を排除・砕氷して耐氷船をエスコートする砕氷船がある。 氷が減ると、NSRが開けたぶん航行船舶は増えるので、トータルでの航行リスクは上がる*2。 ということでまず氷をどうにかする、とくに現在の氷の分布を把握し予測する技術の発展が望まれる。 氷の量(海氷密接度)のほか厚さや種類は重要な情報で、既存ではさまざまな測定方法がある。

  • 目視
  • 漂流ブイ
  • 海氷船舶の横にセンサーを吊るして航行しながら測定
  • マイクロ波放射を衛星(AMSR)で捕捉

氷況予測

様々なデータから、大きく3つのスパンで今後の氷況を予測する。

短期

航海中船舶の航路決定に必要な、2日間程度の天気予報情報。

予測のメッシュを数km程度の解像度にすることでアイス・アルベド・フィードバックや中規模の渦構造の再現精度が上がる。 氷海流出油のハザードマップを作るというような応用もある。

サービス界隈で身近なところだと、ウェザーニューズ社が既にこの領域に入っていて、NSR航海の実体験の報告が行われた。 北西ロシアのムルマンスクから天津まで23日程度の航行。 現場では他船からの電話連絡を受けてから1時間(!)程度で結氷する。 運がよいとオーロラが見えたりホッキョクグマを観察できたりもする。

中期

配船計画に必要な航行可能時期の予測を4月頃に出す。年間では9月中旬が最も氷が少なくなる。 航路が開けるかどうかは氷面積だけでなく氷の厚さにもよる。 氷の厚さの直接観測はまだ精度が十分でないので、冬の氷の移動状況から氷の厚さを推定する。 ずっと存在する氷よりも、氷が移動してできた隙間にできたばかりの氷はまだ薄くて夏に溶けやすいはず、ということである。 Sea Ice Outlookという予測発表があって日本の研究チームは好成績を出している。

長期

30-50年程度のスパンの投資・造船計画に影響する情報の分析を行う。 氷況に加え、ヤマル地域のLNG*3など沿岸の経済活動との相互影響もありそうだ。

着氷

航行中に上げたしぶきが船体に着氷してしまう(昔は着氷の重みによる転覆もあったらしい)。 酸化チタンのような塗料での予防は現在難しい。 着氷傾向は気象・氷況からの経験式があるものの、船体形状や航行速度にも依存する。 着氷の成分や構造、着氷過程を知ったりそれを排除する必要がある。 観測には飛砂や吹雪の粒子観測機器を転用したりする。 船体形状から気流の観測を行う必要もあるが、CADデータが公開されていることは少ない。 最近は複数角の写真からモデリングが行えるのでそれで十分なことも多い。

波浪

海氷のダイナミクスにおいては波浪も重要である。 氷海では分散関係や風との相互作用が通常の海洋と異なり波浪の物理も変わる。 また氷海と通常の海洋の境界は年次、年間で大きく変わるという点も従来の波浪学にない側面である。 既存モデルに対して、スペクトル領域と時間領域をつなぎ、さらに数値計算に適した新しい物理モデルが模索されている。

その他の気象学・気候学的情報

海氷予測だけでなく中緯度帯の気象とも密接にリンクしているという意味で、極地の気象観測の重要度が増しており、諸プロジェクトも稼働している*4。 例えば極低気圧は発生・消滅サイクルが24hと短く、既存の時空間解像度では捉えきれない。 着船する港では潮位の情報を必要とするが、これに関しては北極海は衛星がカバーしない海域で、まだ予測誤差(潮位・ピーク時間)が大きい。

氷中航行

相手は氷なので衝突の衝撃や曲げによる荷重は馬鹿にできない。 衝突時のエネルギー変換から船舶にかかる荷重を求める経験モデルで計算したり、氷に見立てたプラスチック片と船舶模型の衝突実験を行ったりする。

砕氷船のエスコートのオペレーションも複雑で、

  • 迅速に砕氷しないと航路が渋滞してしまう。
  • 耐氷船のサイズに合わせて砕氷船を並進させる場合もある。
  • 状況によっては海氷中で砕氷しながら旋回したりバックしたりもする。

海氷を排除するか砕氷するかの判断は船と氷のサイズ比較で経験的に行う。 一方耐氷船は耐氷船で、砕氷船による排除の後に流れてくる氷を手動操縦で避けて通らないといけない。

航路選択

船舶が目標とすべきマイルストーンのネットワークとして氷海をモデリングしたり、ダイクストラ法やA*アルゴリズムで航路を決定する。 海氷分布の実データは船舶搭載のレーダの画像解析により動的更新される。 航行速度のデータは海運会社から公開されていないが、氷況記録や航行実績から推定する。実際の航行時間には砕氷船のエスコート待ちも含まれるのでより複雑である。 また極を通る航路が選択される時もあるが、沿岸から離れすぎるのはそれはそれでリスクなので何かしらの調整を入れる*5。 最適航路や航行時間の変化の長期予測も視野に入る。

感想

情報学や工学に似て、寄ってたかって集められた様々な知見を垣間見た一方、環境影響や生態学、安全保障のような海洋の周辺の各論が網羅されているわけではなさそうで、現段階の予算的にはエネルギー開発と海運がなんとしても重要という印象を受けた。

全く個人的だが北極海と聞いてふと思い出すのは、あるとき見たロシア映画 How I Ended This Summer だ。 孤立した極北の気象観測所で働く老人とインターンの青年の、致命的にこじれていく(それも放射性物質の周りでくるくると)関係を描くこの一作は、観ていていかにも心が寒々としてくるのだが、半世紀後のテクノロジーに囲まれた北極海の風景はまたがらりと変わっているのだろうか。