"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

努力と逃走

大企業での過労死の悲劇をきっかけとして、働くことや生きることについて多くが語られている。「頑張る」「逃げる」といった態度の解釈が問われるのも、自然なことだ。悼む者としては、義憤を並べることもできるだろう。亡くなった人といま危機にある人に向けて、もし自分にしかかけられない言葉があるとすれば、今までのそれほど長くない人生で自分の身に起こったことを、特に努力ではなく逃走についていくらか語ることかもしれない。

幸いにも自分は命を絶つほど思いつめることはなかったし、これからもないと信じたいが、状況を克服した人間のバイアスほど危ういものもない。語ることで誰かを救えるのかは、分からない。むしろ誰かの気分を害するのかもしれない。だが、これは言霊の常として引き受けよう。せめて、(思春期以降の複数の経験であるということを除いて)なるべく具体的な状況を特定しないようにしたい。

これは本当に餞になるだろうか。どちらかといえば、語らないでいることを自分が自分に許さないというエゴに近い。こういう人間が一人いて、いつかはそのうち死んでいくという話に過ぎない。人生に再現性はない。再現性はないが、いや再現性がないから、書き残すことに意味があると思う。骨太な意見も理論的な背景も持ち合わせないが、経験を語るのにイデオロギーは不要だ。

もし読み手を想定する必要があれば、「努力」のガス室で死んだ目をしていた過去の自分に向けて書こう。あなたの前の扉は、そんなに頑張らなくても開くこともあるのだと。

挫折

自分にも、何らかの目標の達成に向けて心骨を削り徹夜で「頑張った」経験はある。自分が初めに経験した状況は、まだ楽観的なほうだ。一緒にプロジェクトを楽しむ仲間もいる。直前まで問題に向かう姿勢を見せ続けるということそのものが神聖視される。何となれば未達成の目標を前に「根性を見せないで帰る」人に白い目を向ける側に回ったこともなくはない。

怪我がないほうがおかしいほどの自発的なハードワークの成果は、残念ながら僅かだった。原因としては、プロジェクト管理が実質存在しなかったことや、結果より過程を重視していたこと、などいろいろある。

少しばかりの虚脱感のあと、自分の中で一番変わったことがあった。それは、語弊を恐れずに言えば、「頑張る」のをやめたことだ。闇雲に頑張る代わりに、人間やその集団についてよく考えるようになった。頑張るよりも、やることがある。人間は消耗し、置かれた状況を把握できなくなる。自らが消耗して初めて、少し人間的になったのかもしれない。

危機

その後の人生が順風満帆であればよかったが、このような、努力の過程を楽しめるような状況ばかりではない。思い出すだけで心拍が上がったり、なぜそんなことで神経をすり減らしてしまったのかと怒りがこみ上げてくるような記憶もある。

度重なる失敗やコミュニケーションミス、望まぬプレッシャー、衰える自信、震える声。「これができないのか。なぜお前はできないのか」の連発。「これはいつかきっと克服できる」という希望と、「これは明日も繰り返される」という絶望。

周りの人が憐れんでいるのがわかるが、同時に自分を蔑んでいるのかもしれないと訝る。話を聞いてくれる人は口を揃えて「あなたは悪くない」というが、耳に入らない。「なぜ自分はできないのだろう」という自問が続き、「常に問題の原因は自分であり、自分さえ変われば何とかなる」という内なる声が聞こえる。

やがて、玄関で靴を履いて、その場で数分間足が固まるようになる。ベッドに横たわって空気を吸っているだけで肺や血管が詰まるのではないかという感覚に襲われる。「現実」に殺される。

脱出

こういった不安を生むのは、独り歩きした心理学や自己啓発の断片かもしれないし、経験の少なさから来る視界の閉塞かもしれない。精神の置き場は変えられるが、肝腎の精神そのものはただ一つしかない。一度ある危険な精神状態にはまってしまったら、自分一人ではどうしようもなくなる。

自分の場合は、カウンセラーや医者と話す機会を得て、一度のみならず苦境を脱出した。とくにカウンセリングは大変有効だったのだが、日本にはこういったことを公にすることを避ける風土があるように思える。自分も例に漏れず、プロフェッショナルの「もっと自分を大事に」という真摯な提案を、初め受け入れられなかった。逃げたと後ろ指をさされるのが許せないのだ。

努力と逃走

逃げるという言葉には常にネガティブな印象がつきまとう。果たして、自分の場合は敗北感はしばらく続いたものの、逃げることによって、衰弱した精神は結果的に回復した。あのまま逃げていなかったらどうなっていたのだろうか。

自分の経験したことは努力と呼べるだろうか、という問いも可能だが、「これだけやらないと努力とは呼べない」という形の議論に持ち込むのは野暮だ。健康を害するまで苦労している人を貶めるつもりはないが、努力を美化し世界を動かす力と、逃走を糾弾し人を死に至らしめる力は地続きだ。思考なく行われる努力というのは、努力と名付けられた怠慢である。

逃げたというのは揺るぎない事実のように思えるかもしれないが、ものの見方であるともいえる。やるべきことを数えるよりもやったことを数えるほうがいいというのと同様、一時的に逃げることで、回り回って別の何かを追っていることもある。努力か逃走かといったうわべに気を取られて、より大切な思考から逃げているということはないか。

そういった価値転倒は、少しは許されないのだろうか。