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"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

長いようで短い一ヶ月

まとまった時間を振り返るときに使う「長いようで短い一ヶ月だった」という言葉には、ほぼ社交辞令であることが多いとはいえ、若干の混乱や複雑さがあるように思える。

単純な判断基準の一つは 「経験した主観の時間が実際の時間より長かったか短かったか」 という「時間の濃さ」ベースのものだ。 つまり、「二ヶ月前だと思っていたら一ヶ月前のことだった」場合には「長い一ヶ月だった」を、「一週間前だと思っていたら一ヶ月前のことだった」場合には「短い一ヶ月だった」を使う。

しかし恐らく、実際には「この時間の過ごし方を続けたいか、続けたくないか」という時間の使い方に対する価値判断が紛れ込むだろう。 「早く終われ」と思って続けている日々なら「長い一ヶ月だった」になるし、「終わらないでくれ」と焦っていれば「短い一ヶ月だった」になる。

例えば、「目分量で二ヶ月かかりそうなタスクに対して一ヶ月しか与えられなかった」という気持ちがあれば、 「時間が足りなかった」という意味で「短い一ヶ月だった、あっという間だった」という発話がなされることはありえる。 ここではその一ヶ月がいかに濃密に過ごされていようが関係なく、「やるべきことがやりきれなかった」という無念感が強く出るだろう。

また、人との別れを惜しむときに、「初めてお会いしたのは一ヶ月前だったが、正直あなたとは一週間分の記憶しかない」というのは実際はそうであっても角が立ちすぎるので、一ヶ月分濃密な記憶があることを伝えつつ、上記のような「一ヶ月では全く足りない」という寂寥を伝えるために「長くて短い一ヶ月」のような不思議な言葉が生まれたのかもしれない。

人の欲に限りはなく、かつ時間が止まってくれないものである以上、たいていの人生は何をやっても「時間が足りなかった」ということになるので、「短かった」人生の方に偏るのだと思われる。いろいろな人生観があるものの、そうならないように時間の過ごし方を変えていくことが重要だと今のところは思える。