"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

死、セッション

よくある自己啓発は一貫性が重要だと教えるが、一貫性とは最初から存在するものではなく、「一貫していないようにみえるものをいかに関連づけられるか」というストーリーテリング能力につけた聞こえの良い名であると考えてもよいかもしれない。

 

むしろ我々の時間は毎日、いや毎時ごとに予告なき終止符を打たれているのが本来の姿で、連続しているようにみえる方が歪なのかもしれない。

 

我々は肉体の死について死を想えmemento moriと叫ぶ。が、これは死というより終焉について想えと捉えるほうが有用だ。

 

死は様々なスパンで遍在する。人間が死ぬだけでなく、国家や通貨も死ぬときがある。それに伴い一つの経済が死ぬ。深センのように立ち上がり一気に羽を伸ばす都市がある一方で、移民の腰掛けに使われる都市もあれば寿命に達する地方都市もある。会社の寿命は今や人間の寿命より短いと言われる。技術やコミュニティは作られては消え、次のものに命をつなぐ。それによって社会や市場の新陳代謝が促される。メディアを賑わす燃料は何度も投下されては消化される。

 

一年の計を立てたその一年は藻屑と化したことに気付く。夏の間に何かやろうと思っていても夏はすぐに去ってしまい、その何かは一年待ちになる。我々のサービスを支えるサーバーも時には死ぬ。電力も突然落ち、街が暗くなることもある。

 

一日というスパンの中でさえ集中力や記憶力が保てる時間は限られる。東京の多くのカフェWiFiは一時的な利用を前提にしている。こういう最小の時間からプラクティスしていくのがよいだろう。これを仮にセッションと呼んでおく。

 

我々は一日にセッションの死を何度も迎える。不断に継続するセッションというものは存在しない。

 

サーバーが死んでもシステムが死なないようにするために我々はサーバーの死をシステムに組み込む。

 

セッションの死の接近を感じるたび、筆者は脳内のものをSlackに吐き出す。ときにはブラウザを閉じる。セッションを圧縮し保存して死後の次のセッションに備える。

 

死の波状の襲撃への耐性をつける最善の方法は、それをプロアクティブに発動させておくことだ。変化を日常的にすることで変化への恐怖を排除する。定期的にワクチンを打ったり住処を変えるという、仮想の死をシミュレートする人間の知恵と同じことを、より短いスパンでやるだけだ。

 

ミクロな死がよりよいマクロな生を支える。それは細胞と個体、個体と種の関係にとどまらず一人の人間の精神においても真であるように思う。