"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

減価貨幣、持続可能性、草コイン、demining

貨幣の勉強会に参加していたころ、ゲゼルの減価貨幣という概念をあまりよく知らず腹落ちしていなかったのだが、直近の斉藤先生の本を読み直しながら改めて考えていたら(本書の意図とは違うかもしれないが)いろいろ思考が自走しだしたのでメモしておく。


キモは次のようなデジタルトークンをうまく設計することだろう。

・誰かがある社会課題の解決にいくらか貢献したという確認ができたら、それを記録するトークンが発行される
・その社会課題が解決したという確認がとれるまでトークンの額面価値は上がり、トークンの発行と蓄積が進む
・その社会課題が解決したという確認がとれるとトークンの価値が減少に転じ、社会に蓄積されたトークンは(持っていても仕方ないので)価値交換の媒体として回るようになり、あるタイミングで社会から消滅する

これは意図されたかどうかわからない言葉遊びだが、著書で出てくる社会課題の例は地雷(mine)の除去(deminng)だ。この世界観ではmineは作り出すものではなく、はじめから負債として世界に組み込まれているものだ。これを世界から除去する(demine)かわりにその証跡を手元に一時的に保管しその流通価値を短期的に最大化すること、つまりmineを製造するminingではなくmineを消滅させるdeminingこそが経済を回す。

このような増減価するトークンによる経済の面白いところは、はじめから終焉が織り込んであるにもかかわらず社会の代謝(従来の代謝活動+社会課題の解決)を促す性質があるということだ。それどころか、この種の経済が予定された寿命よりも継続しているということは、ある社会課題の解消がうまく進んでいないという何らかの病理を意味する。まあ、そもそも医師や弁護士といった専門職の存在は特定の問題の存在を意味するじゃないかという考えは既にあるが、さらに一回り大きく「その社会課題と運命を共有している経済圏」を想像しようというわけだ。

そうすると、経済の持続可能性というのは、しょせん最大の視野での話にすぎず、トークンに象徴される個々の経済が持続可能である必要はなくなる。

最大の経済とその部分的な経済のこのような関係は、生物圏と個々の生物種との関係やシリコンバレーの経済圏と個々のスタートアップのような関係に似ている気もするが、少し異なる解釈も可能だ。こういった個々のトークン経済の死は、生物種の滅亡や会社の倒産と違い、悲劇的な意味合いをもたない。初めから自らに課せられた負債(社会課題)の解消と、それに伴うトークン経済自身の終焉に向けて方向付けられているからだ。

社会課題の解決を「全ての地雷をdemineすれば終わり」のようにちゃんと終焉するようなうまいスコープで定義できることや、そもそもトークン経済が拡大しないというインセンティブ設計の失敗を防げること、などの前提条件はある。が、多くの小さなトークン経済が素早く入れ替わるほど、次の社会課題に対峙する準備ができ、また社会課題解決のためのナレッジが蓄積していく。人類は同じ社会課題にいつまでも取り組んでいられるわけではないので、このほうが大局的には社会改善を進めていくことになる。

ここまで考えていって、binanceやcryptobridgeに数日おきに出現してくるマイナー通貨(草コイン)が実はこれを既に実装しているというシナリオに思い当たる。つまり、出てきて一ヶ月で(法定通貨あたりでみて)減価していく貨幣は、市場の幻滅を見たから減価していくのではなく、そのサイクルの間に既に地球の何処かの何らかの社会課題を解決しており、終焉すべくして終焉しているのではないか。すると草コインの回復を待っている我々投資家は、役目を終えたトークンを何ヶ月もホールドし続けるただの情弱だということになる。自分の保持している名前も覚えていない通貨の中にそのようなものが実在するのであれば、一杯やられたなと思うし、まあありそうにないならそういうSFが読みたい。