"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

「すみません」の軽さ

とりあえず、何かと馴れ馴れしい人が嫌いで、「ありがとう」も、本来喜ぶべき御礼の言葉なのに、
イラッとしてしまいます。
神経質でしょうか?

質問者は若年層に溢れる「ありがとう」の軽さについて不満をもっているそうだ。なんだそれ、と思ったけれど、自分の思考傾向も少し変わっているので人のことは言えない、という面がある。

日本語の「すみません」という言葉には、もともとの

  • 申し訳ございません、ごめんなさい

という意味を含め、

  • よろしくお願いいたします
  • ありがとうございます
  • 恐れ入ります

などの様々な近い意味がある。ドイツ語のBitte.やロシア語のПожалуйста.もいろいろな文脈で使われる言葉のようだけど、「すみません」にもそれを凌ぐ応用力があるのではないかとも思える相当便利な言葉だ。

ここからは言語保守としての意見だけど、この便利さに頼りすぎるのは日本語の将来にとっては考え物だと思っている。せっかく特化した挨拶があるのだからそれを使えばいいじゃないか。そこは礼をいうところだろ、そこはお願いしますだろ、というところでも大抵の人は「すみません」ですませてしまう。

さすがに意識しすぎだとわかっているのでブログやメール、フランクな場では自分でもとっさに「すみません」が出てしまったりするから偉そうなことは言えないが、時々できるだけ意識的にもとの語彙に還元して使ってみるのはどうだろう。何を聞いても一つ覚えで「すみません」としか言えないのはまるで外国人のようで、ネイティブとしては少し考えが足りない気がする。果物屋に行って「果物をください」という人はいない。言葉の存在意義は区別することにあるのだから、区別の必要意識がなくなると言葉は消えてしまう。とりあえず謝っておくのが日本的な美徳だという考えがあるのかもしれないが、なぜ謝るのか、という思考を端折っているように思えるのだ。

こういう傾向はあまり年齢に関係がないように思える。若い人が「ありがとうございます」「恐れ入ります」「お願いいたします」などというと仰々しいと眉をひそめるご年輩もいるかもしれないし、オールマイティな「すみません」の方が潤滑油としては優れている気がする。でも、最初の質問に対する回答になっているかどうかはわからないが、「ありがとう」が言えなくてすぐに「すみません」と反射神経的に答える人よりも「ありがとう」とちゃんと言える人の方が、自分には好感がもてる。

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