"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

議論論

 すっかりご無沙汰だ。はてなを始めて以来、ついに先月は一度も書かない月となってしまった。ハイクやブックマークに少し浮気しすぎて、ブログの書き方をどうやら忘れてしまったようだ。年始早々ネガティブが襲ってきて、何かあるとすぐに心が硬直し、風呂でも布団でも考え続け、靴を履いて出かけようという時に頭を抱えこんで動けなくなってしまうという日々が続いた。暖冬と思っていたが雪は心の中にも降るらしい。そいつはどこからやってきたのかも今となってはよくわからず、たまたまどこかへ隠れているので隙を見てこうして筆をとっている次第だ。


 そいつの話はまた今度として、ブログを書かなくなった理由は、ブログを始めようともしない人の理由に近い。何を書いても、既にどこかにある誰かの何かの複製ではないか、という無力感。「そんなことは数十年前に○○が既に言ったことだ」「それって××のことじゃん」という反論や要約が飛んでくるのではないか、という恐怖。己の無知陳腐を恥じてしまうという本能。これを発動させないためには、とにかく学び、知り、一刻も早く無知を脱するしかない。引きこもってブログを読む、より深く知りたければ本を読んでみるのが妥当なところであろうが、人と会ったり議論したりするというのも悪くない。というより、何らかのテクストを読むということはそれを書いた人と議論を交わすということでもあったりなかったり。


 さて、トロントの英語学校でディベートの授業をとっていたとき、こんなことがあった。先生がこう聞いたのだ。
「ディベートの目的は何?」
生徒たちは何となく「物事を明らかにすること」などと答えていた。
先生はやさしく言った。
「それも間違ってはいないけど、一番大事なのは、勝つことよ」


 僕はこれを聞いたときたまげた。議論の目的が勝つこと?つまり何が正しいか、何が真理かはどうでもよいのか?それでは、本当の意味で建設的な議論などありえるのか?


 そして自分がたまげたということに再びたまげた。世の中でなされている議論の大半は、そういった議論ではなかったか。相手が知らないことをつかんで鼻を明かす。時間を区切ってCMを挟む。確かに形式的な裁判やテレビ(そしてネットも例外ではない)で見るようなこういった議論の白々しさは、議論というものの性格を考えると仕方がない。24時間議論し続けるのはしんどいし、議論で相手をたたきのめすのを仕事にしている人もいる。議論の場にのこのこ出て行って、自分の知らないことを叩き付けられて返す言葉もなくなる、という状況はよくある。


 「そんな話をしているんじゃない」「前にも言ったけれど…」といった文言が繰り返されるのも、もともと議論そのものの構造に問題があるのではないだろうか。僕らはコードがリピートしないことを狂信的に要求し続けるのだけれど、議論に対してはそうではない。見ていて面白いからだ。会議は踊る。議論はリピートする。それが宿命のように、人類のリソースを消費し続ける。


 もちろん全ての議論が勝つことを目的としているわけではない。しかし、本当に建設的な議論というのは果たしてどれくらい存在するのだろうか。人は全てを教えられて生きるわけではないので、誰でも知らないことがあるのは当たり前だ。その人の価値判断は、その人の生きてきた世界の中でしか形成されない。そういう人がいっぱい集まって議論するからこそ新しいものが生まれるのだという人もいるが、それは意地悪く言えば前提の共有を拒否するための言い訳、過渡状態における改善の可能性の否定でしかない。知らないことを人に教えてもらうことで生まれる新しさは、突出しているという意味の新しさではなく壁を取り払って見えてくる新しさにすぎない。つまり知の壁が最初からなければ問題にもならない新しさなのだ。


 全ての人が全ての前提を共有してから頭を捻って出てくる新しさと、その共有の過程で出てくる新しさは違う。おそらく井戸端会議から休戦交渉、ブログ論壇から経営戦略会議に至るまでの人間の議論の多くが、後者に重きをおいている議論だろう。本質的な新しさは前者にあって、しかも驚くべきことに、「全ての人に全ての前提を共有させる」というシステムは、このウェブ時代においてすら実現していない。仮にこの装置を実装できる仕事があるとしたら、それはどんな装置なのかは想像だにできないけれど、議論という議論から人類を解放する、非常にクリエイティブなことだ。


 知っているとか知らないとか、人類はまだそういうことを議論のオカズにするレベルにいる。無知な人を叩いている暇があるのなら、どうやったら無知による無駄な議論をなくせるか考えればよい。まず神聖化されている「議論」の構造についてよく考察する必要があるし、そうしていこうと思う。達弁なネットユーザーの議論ですら不毛だなと思うことが多いのだ。いわんや議論下手をや。


 とかく僕らは、「知らないことを知られる」ことを恐れがちだ。その是非はさておき、僕の知っている人に例外が一人いる。その場の空気からして「知らないとまずいんじゃないか」と本能的に察してしまうようなことでさえ、「それ何?」とためらいもなく聞いてしまう人がいる。まさに一瞬空気が凍る。


 これは僕にとってはものすごいカルチャーショックだった。彼にとっては、きっと無知は恥ではないのだろう。彼と出会ってからまだそれほど月日が経っていない僕がこう感じるくらいだから、この世界の開闢以来彼を見てきた人の多くに同意していただけること相違ない。