My Thoughts Between Silicon Valley and Japan
well,
僕はいつもエントリーの下書きにGoogle Notebookを使う。SVC前から書きためていたものを見直してEmacsとGoogle Notebookの間でmerge & purgeを繰り返したのだが、到底整理できたとは思えない。整理なんてせずに途中で出した方がいいよというアドバイスをいただいたのだが、箇所によって書いた日(の気分)が違い、論理的につなぐことは僕の手に負えなかったため、反則的に引用という形で載せたい。整理もせずに書いたものがSVCのまとめといえるはずもなく、そういうものを期待していただいた方には申し訳ないという他ない。しかし、SVCがなければこの形ではまとまらなかった記憶の断片なので、svc09タグをつけてここに捧げたい。
between positive and negative
世の中には、ポジティブでできている人と、ネガティブ*1でできている人がいる。自分の中に二人の人がいる日もある。ポジティブとネガティブの決裂の救えないところは、ポジティブは何かを度外視してしか成立しないというところにある。見て見ぬふりをすれば、ポジティブに振る舞うことは簡単だ。しかし、ネガティブの苦悩を知らない、あるいは無視することで成立するポジティブは、問題の先送りにすぎない。墓場まで先送りしてすむ問題もあれば、すまない問題もある。ポジティブとは、「ネガティブからは何も生まれない」という一つのネガティブ、言わばメタネガティブである。安直なポジティブには、ネガティブへのネガティブをもって妥協するのでなく、ネガティブへのポジティブをもって対抗するほかない。ネガティブの底に沈み、ネガティブと睨み合い、そこで精製される根源的なモノをこそ駆動力とする。表面的なポジティブだとかネガティブだとかが交錯する領域には、本質は存在しない。
SVC前に、僕はこう下書きした。そして、SVC前後で自分がどう変わるか観察しようとした。このツアーで会った人は、やはり文字通り一人残らずポジティブだった。
「必要以上に明るい人」に対して渡辺千賀氏が使う「便所の百ワット」という揶揄は大変catchyだ。日本的センスにおいて便所の百ワットが煙たがられるのはよくわかる。しかし、晴天の続くSVでみんな便所の百ワットになるのもよくわかる。日本でのそれと、SVでのそれは意味が違う。SVは、勉強も仕事もここで続けたい、と思わせる。ノイローゼや自殺などとはいかにも無縁そうな空気がある。初めて行ったSVだが、SVのポジティブは死んだ、という印象は全く受けなかった。
多少羽目を外す若者なんてどこにでもいるもので、いちいち目鯨を立てるものではない。それよりも寧ろ、耳元で絶望を囁き続ける大人にこそ、さっさと引導を渡す*2べきだ。Caltrainで陽気に歌う外人(Stanfordの学生かもしれない)を見ていると、そういった思いに駆られる。過激だろうか。
「私は自信がありませんな もし植皮がうまくいってもこの子の精神力がもちこたえられるかどうかね…99パーセントダメだよわしの経験では…だめだほら これではたぶんなおっても手足の自由がきかんよ…一生この子は不幸をしょって苦しむことになるだろう むしろ…」
「うるさいなあなたは! 苦しみにたえぬいて生きのびた子だっているんだぞ!! 私もそのひとりだっ!!!」
(『ブラックジャック』)
『シリコンバレー精神 -グーグルを生むビジネス風土 (ちくま文庫)』には、SVで事業に失敗して家族心中するロシア人の話がある。SVのあの空の下で自殺を思うなんて、なんと不幸なことだろうか。
SVで一番印象に残っているのは、会った人が二言めには「ま、こっちへ来てみな」と言うことだ。それは留学を示唆することも、起業や就職を示唆することもあった。そこには「とにかくこっちに来さえすれば、なんとかみんなで面倒みてやる」という愛情、「厳しいぬるま湯」*3が感じられる。
before and after
これ(シリコンバレーどころか海外旅行を一度もしたことがないような人が企画して中心人物になるなどといった冒険をして欲しい*4なぁ)は俺のことや!
シリコンバレー・カンファレンス - yaotti's diary
少しでも留学ってどうなんだろうと興味を持っていたり、ちょっと無理すれば留学できるくらいの経済的な状況、あるいは自由な環境にいる人は、かなり真剣に留学ということを考えると良いと思います。
「自分の力と時代の力」講演録(JTPAシリコンバレー・カンファレンス2009年3月21日) - My Life Between Silicon Valley and Japan
年末から僕を襲い続けるネガティブは、帰国後に却って悪化した。SVCに巻き込まれた人々が、初の海外で自分の活動範囲を大きく広げ、SVを再び訪れることを強く決意し行動に移る中、自分はその両者とも違って、決定的に変わることができていない。そういう意味で、先達の言葉はcritical hitだ。僕がSVに憧れる理由は、つまるところ日本の閉塞感から逃げ出したいという消極的なものでしかない。こんな僕と、彼らを同列に並べるのは何か間違っている。悔しく、何もする気が起こらなかった。はっきり言って精神的に最悪だった。
SVから戻って見た日本は出発前と変わらなかった。「環境を変える前に自分が変われ」との渡辺氏のアドバイスにも関わらず、僕はやがて環境がswitchするのを待っていた。あくまでもenvironment drivenだ。
精神状況が安定したのは寧ろ、大学院に入学してからのここ数日が大きい。高2で志した物理は趣味に戻り、ようやく雑念を払って情報系の勉強ができると思ったら就活の季節が到来する。アルバイトの時間は減らさざるを得なくなり、自分の責任も変わる。眼前の日本経済はshrinkする。
環境は1080°変わった。ネガティブは不思議なほど奇麗に吹き飛んだ。自分が変わらなくても、他人を変えることはできるし、何かの形で社会に貢献できるはずだ。環境に流されているという面はある。この変化にtypicalな要素があるとすれば、一月も待たずに五月病になって、そのうち鬱陶しい梅雨とうんざりする夏(前の夏はほとんど屋内にいたので精神的な被害を被らなかったが)が来て、気がついたら一回りして、そうやって目の前の事を次々こなしている間に、無難に何もかも忘れてしまうのかもしれない。
このSVCから新しい環境への流れに、僕はどう対処すべきだろうか。
between the surface and the depth
よく「惑わされるな」「流されるな」「浮かれるな」という。「表層にとらわれずに本質をつかむ」、あるいはより端的に「流されない」というのは人類の普遍的な目標であり続けた。手に握ったものが表層であると分かっていて喜ぶ者がどこにいよう。
「流されるな」という助言は、他のあらゆる金言と同様、一定の危険を含む。この命令の憎いところは、それが「俺が本質であり真理だ、俺以外の表層に流されるな」を意味することが少なくないことだ。本質であることのアピールは、つまるところ真理の押し付け合いに過ぎない。
いくら日本に1億の人間がいるとはいっても、一つのシーンに対して1億のソリューションがあるわけではない。あるのは無限とも思えるシーンの連続に対する有限の選択の組み合わせだ。局面ごとに、必ず誰かと同じ行動になる。
人と違うことをしろ、というのは本質的に語弊がある。自分の思い通りに生きるのと、誰かのいうことを聞くのは、最終的には同じかも知れない。僕らには、誰を信じるかを選ぶ自由がある。
これだけの人間が暮らす星だ。何をやっても誰かと同じ、ということはあっても不思議ではない。誰とも一致せず、流されないで生きることなど可能だろうか。結局僕らは、人から見れば「流されて」生きるしかない。新しき者は古き者から見れば流れであり、逆も然りだ。誰に流されても敵を作るのだとすれば、むやみに流れに抗いなどせず、寧ろ自らの属する流れを各人が積極的に選べるようになりたいものだ。
自分を肯定することは他人を否定することを結論付けない。むしろ、自分と同じものを信じる他人に出会うことこそ、人生の至高の幸福だ。僕らにとって重要なのは、流されないことではなく、流されるべき流れを自ら決めることであり、信じるものを自ら選ぶことだ。
なるほどSVCから留学というのは一つの流れだ。しかし、SVの日本人が現実をベースに語る「留学」は、「留学」に対する単なる幻想*5以上の意味をもつ。土俵に立ってもいない人によるdisを聞いている暇があったら、土俵で聞こえる声を信じたい。
the negative again
僕のネガティブとは一体何だったのか。
ニヒルなどもとより敵ではない。一個人の人生に存在意義などない。どれほどの命が失われても人類が存続いや進歩し続けるという現実そのものが、人間信仰に対する冒涜である。人間の尊厳を侵す現実を、僕らは認めなければならない。もともと存在意義のないものに存在意義を見出そうとするから裏切られ絶望する。僕は自分探しなどしない。存在するのは僕の存在意義ではなく、僕が僕自身に付加する価値だ。
劣等感を相手にする時間もない。人にできて自分にできないことを悩むことくらい僕にもある。しかし、嫉妬そのものは何も生産しない。
嫉妬、僻みを解決する方法は「自分の成長」以外にはない
若者に一度だけ与えられる出会いの場、セキュリティ&プログラミングキャンプ - IT戦記
嫉妬や劣等感がちらちらと生じ始めたとたん、このcancellerが脳内に響く。まして他人の嫉妬など興味もない。
昨年末から頭を悩ませ続けた最大の関心は、自分をいかに信じるかという問題意識だった。
自分を信じないということは、自分を殺すということに等しい。究極のときまで自分を信じてやれるのは自分の他にはいない。自分の意志で決断して悔いることはほとんどないが、誰かに流されて悔いることなら山ほどある。
自分を信じるのは簡単だ。厄介なのは、僕らは人と関わり合って生きなければならないということだ。
ほぼ全ての問題意識に大して、人の答えは千差万別だ。人の言うことを聞けという人があれば、適当に聞き流せという人もある。edgeを歩けという人があれば、中庸を貫けという人もある。自分の真理に生きるか、他人の真理に生きるか、それこそが問題だ。
およその場合、このような状況で誰かを信じなければならない。誰かを信じるということは、誰かを信じないということだ。人を信じて失敗しても、言い訳はできない。後悔が残るのみだ。
面倒になって人を信じないという道をつい選びたくなるが、それは少し違う。なすべきは、信じる人を選ぶということだ。自分の直感を信じるということでもある。自分を信じ、自分と同じものを信じる人を信じる。
見つかったら幸運で、見つからなければ孤独あるのみだ。
自分を信じて進む道は常に狂気と隣り合わせだ。自分の愛するものや自分を愛するものの多くを削り取っていく生き方に、僕はどれだけ耐えられるだろうか。味方はいるかどうかわからない。少なくとも孤独を克服しなければならない。自分にいま必要なのは、孤独の中で自分を信じるための強靭な精神と、盤石なバックグラウンドだ。今ここで誰かと決裂してでも、生きていかねばならない。
悶々と思いながら、布団にくるまって本を読み、人と会った。
思えばこの一年、誰もが自分の譲れない何かを信じて生きている*6、ということを確かめたかった。そして同時に、自分を信じる根拠はどこにあるのか、というdriveを探した。一つ目の確信は固まったが、二つめの問題の答えはどこにもなかった。誰の言葉にも決定的な説得力がなく、「あなたが信じているだけでしょ」と心の中で問うしかなかった。人と会って話すことは、つかの間の現実逃避にしかなりえない。
だが、逃避でもよい。かっこいいと僕が思う人は、みな何の根拠すらなくとも自分を信じている。自分を信じる準備ができた。
cast away
僕にとってのSVCは、それ以外の全てと断絶したある契機というよりも、寧ろそれ自体をひっくるめた流れの一部だった。
僕は今すぐ行動に移れない。しかしもし死にたくなるようなことがあれば、迷わずSVに行こう。
便所の百ワットでもよい。逃避でもよい。現実とは理想からの逃避だとすれば、現実から逃げ出すか、現実へ逃げ込むか、それだけの違いだ。
さて、手元には月曜締切の進路調査票がある。
どこへ向かおう。