"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

ロシア語とピジン・クレオール

黒田龍之助先生の本が高校のときから好きなのだが(ビブリオバトルで紹介したこともあるし、先日は神保町の三省堂で行われた講演を聴きに行くことができた!)、『ことばは変わる ─ はじめての比較言語学』にはピジンクレオールの話が紹介されている。 

ロシア人とノルウェー人の漁師の間の対話を容易にするための道具として、ピジンのルセノルスク語(Russenorsk)が、ロシア語とノルウェー語という2つの印欧語の接触によって生まれた。このピジンは、現在ほとんど消滅している。

これはロレト・トッド『ピジン・クレオール入門 (シリーズ・21世紀の言語学)』からの引用で、 Wikipediaによればこのピジンは19世紀まで存在したという。

『ことばは変わる』にもある通り、ピジンクレオール研究は言語習得の過程に光を当てる力をもっていると考えると興味深い。

しかし、ピジンは歴史的に英語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語オランダ語などを基盤とするものが多い。スラヴ語を基盤とする例は少なく、スラヴ語を専門とする先生ご自身が少し残念がっているほどだ。 

上のもの以外には紹介されておらず、なかなかよい例がないのかなと思えるが、最近似たような事例を見たのでメモしておく。

一つめはアラスカでの事例。(アラスカでロシア語の方言発見 | ロシアNOW )

1847年に現れたこの村にはロシア人が住み、その後定住して現地の人々と融合していった。アメリカがアラスカを1867年に買収して以降、ニニリチク村のロシアとの接触は減少し、1960年まで他のロシア語話者と会話することはなくなった。「このような辺境の地で、これほど長い期間、多くの人々の母国語としてロシア語が存在していた例は他に知らない」とベルゲリソン教授は述べた。

ニニリチク村の方言にはロシア語の普通の単語がたくさんあるものの、意味が変わっていたり、シベリアの方言、英語、エスキモー諸語、アサバスカ諸語の単語が使われていたりもしている。

またディクソンの『言語の興亡 (岩波新書)』には、ベーリング海峡のコッパー島アレウト語の例がある。 

19世紀にアレウト列島には、アレウト人と、あざらし猟や毛皮貿易に従事していたロシア人、それに、3番目のグループ、ロシア男性とアレウト女性の間にできた子供たちである「クレオール」がいた。その地域の大企業、ロシア-アメリカ会社はこのクレオールを特別な社会集団として認知し、アレウト人より優遇した。ゴロフコはクレオールが独自の民族的アイデンティティーを求め、そのために自らの言語を「創造した」と説明している。はじめは両方の言語を切り換えてゲーム感覚で用いていたのだろうが、そのうちに体系化されたのだろうというのだ。

それぞれの言語の裏に隠された物語を追っていくのは楽しいかもしれない。