"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

文字、ビール、貨幣

上野の大英博物館展で展示されている「楔形文字を刻んだ粘土板」(メソポタミア、紀元前3100〜前3000年)の左下の隅には、盃に入ったビール(を傾ける人)の絵が描いてある(こちらで閲覧可能)。 これは労働者への配給を意味する文字であるそうだ。

紀元前700年頃に時代が下ると、同じメソポタミア楔形文字は少数のパーツから成る表音文字となり、個々の文字からの具体的な意味は消え去る。 五月祭の言語学喫茶で自分の名前を彫ってみたものがこれだ。

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ギルガメシュ叙事詩を物語る、自分の彫ったものより小さな楔形文字がびっしりと粘土板に並ぶのを見ると、なかなか圧巻で頭が下がる。

さて、初期の粘土板に現れる表意文字によく似たものを我々はよく知っている。LineやFacebookなどあちこちで誰でも使える絵文字である。

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メソポタミア人が何世紀もかけて表音文字のシステムを洗練させた*1 のに対し、コンソールやブラウザでアスキーテキストに親しんできた我々は、面白いことに表意文字へと回帰しその民主化ドッグイヤーで推進しているのだ。


古代メソポタミアの上司はビールをそのまま手渡していたのだろうか。 メソポタミア人がみんな上戸なら知ったことではないが、ビールなんて見たくもないメソポタミア人だっていただろう。 飲まない分はさっさと持って帰って保管するしかない。 現代の貯蓄・冷蔵技術と同じようなものが砂漠気候のイラクにあったかはわからないが、いずれにしても運ぶのは手間だ。 ビールと引き換えられるトークンや権利書のようなものを渡してもらったほうがありがたい。 これをビール券と呼んでも差し支えないが、恐らくほかの商品との交換にも使われることもあったろう。 タバコが物々交換の基盤として流通したというソビエト末期をも彷彿とさせる、貨幣経済の黎明である。(ちなみに、紀元前550年頃リディアの世界初の鋳造硬貨も展示されていて世界史を身近に感じることができる。)

そんなあることないことを妄想しながら立ち寄る上野の業務スーパーのレジには「お支払いにはビール券もご利用いただけます」とあった。 ビール券を市場に持って行ってよりためになる何かに替えてもらうか、ビールに替えて一思いに呑み干してしまうか悩む数千年前のビールクズに思いを至らせる、実りの多い週末であった。

大英博物館展は次の週末いっぱいまで。 大英博物館展―100のモノが語る世界の歴史|東京都美術館

*1:実際にはこの推移は多少複雑で、もともと表音文字が完全になかったわけでも、完全に表音文字に代わられたというわけでもないようである。 楔形文字 - Wikipedia