"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

人工生命と倫理

anond.hatelabo.jp

川上氏と宮﨑氏を追ったNHKスペシャルの件、これが川上氏本人の見解かどうかはさておき、断片的に上がっている画像や動画をみて真っ先に思い出したのはOpenAI Gymを使った強化学習による人工生命のデモだ。

Train Your Reinforcement Learning Agents at the OpenAI Gym | Parallel Forall

www.youtube.com

最近見たデモは、実際にはこれよりもずっと生命っぽさのあるものだった。

 

そして、Open AIのデモを観たときに思い出したのはさらに前の、遺伝的アルゴリズムによる人工生命だ。 

www.youtube.com

 

要するに、研究者やエンジニアが生命の進化に思いを馳せてこういうデモを行うこと自体はこのように珍しいことではなく、今更感がある。ただそれが3D CGのフィールドに出てくることが増えて、視覚的なインパクトが強くなっているというに過ぎない。

 

エンジニアとアニメーターがそれぞれの考えで生命を模したものを作る活動の根源は同じで、生命の驚異に対する畏怖と呼べるものだろう。この番組の状況は知らないが、その畏怖が気持ち悪い・面白いという気楽な表現をとってしまう、また障害者との身近な付き合いから笑えない、といった相手の背景に踏み込んでしまうことで「不快にさせる」ような衝突はあり、さらにテレビ的な演出が加わって問題を薄っぺらく見せてしまうということもある。だからといって両者が相容れないということはないと思いたい。

 

しかし、同じものを感じているにもかかわらずミスコミュニケーションが発生しているように見えること自体は少し頭の隅においておきたい。

 

恐らく人類のマジョリティは、自分と見た目や行動が違う個体を異形として迫害したり、逆に神話化することで歴史の物語を成立させてきたという側面がある。異形への恐怖や忌避そのものは、デフォルメされて我々の文化に深く根付いている。仮に例えば、古の異民族や被差別民、障害者、貧民といった社会から追いやられてしまった人々の歴史が、鬼や怪物にカリカチュア化され、それを恐れたり清めたりする風習が現代も愛されているとして、これをpolitically incorrectだとして排撃することは難しいだろう。

 

では、未来はどうなのだろうか。この先数十年、人間に似たものがどんどん作られて、創造者と非創造者の見た目の違いが失われていくのを止めることはできないだろう。そのとき我々はどこから、不気味だと顔をしかめて笑えなくなるのだろうか。人工的な何かを異形だと感じる心理と、人類の少数を疎外してきた歴史的な背景、そして見た目の美しさによって相手を評価してしまう動物的な本能とのオーバーラップを、我々は間違いなく無視できなくなるだろう。そのとき、人類の倫理はこれに対して準備ができているのだろうか。