分裂
社会がその構成員に求める美徳は集中、一貫、誠実、といったものであることが多い。
他方、我々は、限られた同じ時間を使ってあらゆる刺激に反応することが可能であり、自らの内に恐るべき分裂を経験することがある。分裂は現代人の宿痾であるとしてこれを認め、どう向き合うかを各人が考えることも必要であろう。
- 作者: 平野啓一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/12/17
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揮発性のランダムな刺激やマインドポップからくる閃きは夢にも似る。夢は記録しなければ霧消する。言語化もままならぬ覚醒時の思考をすくい取ってなんとか構造や物語を見出す方法論も枚挙に暇がない。
暴走する内省を永続化することは、古の賢人であってもときに難しかったらしい。
これがトマス・アクィナスの有名な「読解不能な文字(littera illegibilis)です。異常なまでの思考のスピードに、手の動きが必死で付いて行こうとした痕跡です。 pic.twitter.com/sCRzN8MPGX
— 山本芳久 (@201yos1) 2017年2月16日
加えて、我々に与えられる情報のバラエティは非常なものであり、もとより分裂している。一日のうち特定の刺激のために寸断された時間はどんどん短くなる。
人、そして人を含めたシステムは集中の時期と分裂の時期を交互に揺り戻されるものだ。まとまった時間がとれることを前提とするだけでなく、数秒の動画のようにマイクロな刺激の連続を乗りこなし、スイッチングのオーバーヘッドを減らす鍛錬もまた、頑強な人生を送る術として必要とされている。
脳にマルチタスキングの過負荷をかけ続けるのは、頻繁に指摘される通り危険な試みではある。どれくらいの分裂したポートフォリオが自分にとって最適なのかを常にチューニングするための工学もおそらく発展途上であろう。
分裂が人を壊すのと同様、集中も確率的に人を壊す。我々は依存先を不自然に限定することでもまた、壊れたり立ち直れなくなったりする生物である。冒頭にも書いたように、唯一の選択肢への献身がある種の美徳であるからだ。身体の健康へ抱くほどの関心や警戒を、我々は精神の健康に対してまだ抱いていない。ふとしたきっかけで、あるいは遅かれ早かれ、我々は壊れる。ときに、誰ともまともに話せないほどに。
自分は間違いなく、精神が壊れかけているときに助けてくれる人に恵まれているほうだろう。後付けで振り返れば、落ち着いていたときの自分自身の振る舞いに救われているという側面も大いにある。セーフティネットのある社会設計そのものも重要であるが、集中による最悪のケースを認識して自分の周りに予防線をはりながらリスクに身を晒す生き方も、もう少し社会に位置を占めてよい。