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"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

壊れた人

日本に帰って、壊れた人を見る。自分からそう遠くない範囲の人が壊れてしまっている、そして壊れた人とその周りに浮き彫りになった「壊れていない世界」との隔たりを意識することが増えた。これは社会の変化というよりは、ある程度人付き合いが増えれば構造的に起こるものであるように思う。

東京と地方とに限らず、均質で他人との距離がほぼゼロ、そして逃げ場なしの日本では、周りの目が気になりすぎて自分が規範から浮いていないのかどうか無意識のチェックを走らせてしまう。これがないひとは強く、そして魅力的ではある。幸甚なことにそうした人とのつながりも多い。が、そうでない人は、ときに壊れてしまう。無意味なストレスだ。

エレベーターや電車で大声で電話したり音漏れしている人に強い違和感を感じるのは、彼らが静寂を破るからでもあるが、それ以前にその他大勢の人が静寂を死守しているからでもある。パーティ会場までいかなくても、二、三人が大声で話しているような場所であれば、そういう気遣いは無用だ。

単純な話をすれば、日本で壊れるくらいであれば一度日本を捨てて、とくに日本と違う文化圏にいってみるべきだと思ってしまう。天気がよいだけでも救われる人は多いはずだ、というのもあるが、日本という環境に身をおき続けることの別の問題は、周りの人の話していることがなまじ理解できてしまう、という点である。周りがどんな細かいことを話しているのかよくわからなければ、(日本人として)それを気にすることもない。

もちろん日本を離れている自分の時間を絶対的に賛美するつもりはない。海外に行っても、日本的な壊れ方をするリスクを避けるぶん結果的に別のリスクをとらざるを得ない。主語を大きくして言えば、アメリカの医療コストは極めて高く、ヨーロッパはもはやテロの大陸、ワーホリで人気のニュージーランドでさえ近年までは自殺国家の影があった。もちろんサンフランシスコにだって空気を読まなければならないシチュエーションはある。それで日本に帰りたくなるならやむを得ないが、それでもそういう世界を一度経験して自分の内面を更新してみること自体に意味がある。

対策の機会なく壊れた人を見るたびに、自分もそうなる可能性はあった、それどころかこれからもないとは限らないという可能性が透けて見える。自分が壊れたときのことを考えるのは老後のことを考えるのに似ていてやはり気が滅入るが、参考になるのはジョン・ロールズかもしれない。彼は自分が社会においてどんな位置にいるのか知らない、つまり最終的に何が自分の利益になるのかわからないという前提(無知のヴェール)のもとに社会設計を考えれば社会は普遍的によくなるはずという思考実験をする。

もちろんこれが行動指針として充分なものかどうかという議論は別途必要だ。壊れた人にも活躍の余地があるような場所を作れればいいのだが、そこまではまだ遠い。これは新年の誓いでもなんでもないが、ただ、とくに日本という社会に焦点をあてるときに自分ができることが仮にあるなら、多様な社会へつながるようなことには自分の人生のいくらかを捧げてもよいと思えている。それがいささか孤独な道になろうとも。