"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

Amnesia

自分の過去を集めるのに必死になったことがあった。自分が世界に生きたことが忘れられていくことが怖くなって、周りのあらゆるものに病的なまでに生の足跡を刻もうとした。手帳は既に10歳くらいからある程度習慣づけていたが、毎日教材とノートに必ず日付を書き込むようになった。それまでに行った毎年の家族旅行のパンフレットの日付をできるだけ確定していった。17にもならないうちにExcelで膨大なクロニクルを作ってみたし、日記をつけはじめたりもした。おそらく、ブログをつけているのはその延長かもしれない。

結果明らかになってきたことは、自分の幼少期の記憶において予想以上の部分がテレビアニメや特撮番組に重点があるということだった。記憶力がはっきり云って悪い方なのでもちろんストーリーなんて殆ど覚えてないんだけど、情報が世の中にあふれ出した副作用で、いろいろな形で記憶の片隅にひっかかるピースがいろいろ見つかり、自分のアイデンティティを時間軸上に定位するという意義においては非常に気持ちがよかった。ドラゴンボール、幽々白書などのメジャーどころはもちろん、勇者シリーズだとか戦隊ものだとかダチョウ倶楽部の頃の天才てれびくんの中のドラマだとかの年代は、今では調べればすぐに分かる。ガンダムシリーズのエンディングテーマを聞いた瞬間には、自分がそれを昔見ていたということを瞬時に思い出して何故だか嬉しくなった。マイナーなケースなら無責任艦長タイラーのオープニングやモンタナ・ジョーンズ、Rose Hip Roseなどとの再会がある。たいていのものであれば、数千万のネット人口のロングテールに棲む一部のボランティア的ファンが、非常に高品質の情報を頼まれもしないのに発信してくれる時代だ。

逆に、存在してはいるのに時間軸に定位しない情報というのは不安を喚起する。例えば青空少女隊のOVAの予告を毎週見ていたはずなのに、それがどの局のどの時間帯だったかということはどれだけ調べたってわからない。確実にその時間に何かのアニメを見ていたことはわかっているのに、それが何なのかは結局突き止められない、というほど気持ちの悪いこともない。中1のときに親戚の家で読んだ小説は、非常に印象深いシーンがあったにもかかわらずタイトルが分からない。この場合は親戚に聞くのが一番手っ取り早いのだが、ともかく現状の情報の構造では、シーンからインデックスを得ることはその逆ほど容易ではない。

世界はこれからも進化するツールによって自身のバックアップをとり、自身に関する情報を補完し続けるに違いない。しかし、当たり前のことだけれど、どれだけ人類が表面的に進化したところで、テクノロジは過去に向かっては発達しない。数千年の古に遡るテクノロジを人類が手に入れるには、数百年か同じく数千年の時が必要かもしれない。そしてテクノロジがどれだけ発達したところで、そのイノベーションは一人ひとりの記憶という究極の深淵に至ることはできない。Webは今や何でも知りうるように見える一方、Webそれ自身以前の世界に関する知識ストックには限度がある。OVAの予告CMの時間帯などという極めて個人的で低需要な情報がWebに組み込まれることはまずない。仮に組み込まれることになるとしても、需要が発生する前に資料が消滅してしまうだろう。タイムマシンでも完成しない限り、僕は記憶以外の何者にも頼らず自分の過去を再構築しなければならない。幼稚園児の頃僕はとんでもない自動車マニアだったらしいが、僕自身でさえ覚えていないその貴重な事実は親戚の記憶を除いて世界のどこにも刻まれていない。小学校のときに友だちと毎日何をして過ごしていたかというのは記憶を辿れることもあるが、大部分が死んだ情報であり、確かめる術がない。

この問題は一人の個人に限った話ではなく、人類全体が共有しているものでもある。自分の生の限界を超えた過去については、誰かが書いたものでしかその情報を得ることはできない。それは一次史料かもしれないし二次史料かもしれない。1937年に南京で何が起こったかを正確に知る日本人など殆ど存命しない。織田信長が本能寺で本当に死んだかどうかなんて確かめる術はない。カエサルが死ぬ直前の台詞については、シェークスピアを引用する能しかない。印欧祖語の再建に至っては良くてロマン、酷ければ胡散臭いの一言に尽きる試みだ。多くの日本人は、ヨーロッパ人に比べて自分たちの起源がはるかに謎に満ちていることを意識していない。個人の記憶がないと不安になるのと同様に、民族の過去が不鮮明だとその上に立脚するアイデンティティも色あせてしまう。

世界の歴史が過去の名もなき多くの民によって支えられていることは紛れもない事実だが、そうした文字通り無名の人々に関する歴史は世界の歴史書には刻まれない。仮に名前こそ記述されなくとも、世界にその生を刻んだ者は、既に無名ではない。たちの悪いことに、もし巧妙でまことしやかな、悪意のあるでっちあげがそこにあれば、後世の人間はそれを信じざるをえない。人は自分の記憶のみに生きるのではない。親や先生や権威者が「昔こういうことがあった」と云えば、自分の記憶に残されていない出来事であっても、仮に根拠のない神話や伝説であろうとも、民族にとって不名誉な記憶であろうとも、それを信じ、さらには常識として受け入れなければならない。

科学と違って歴史には再現性がない。過去を考えるとき、門外漢にできるのは実験で確かめることではなく、信仰することだけだ。その点において歴史はと宗教と紙一重のものであり、一つの麻薬なのかもしれない。