"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

制約としてのハッシュタグ

Facebookを眺めていたら「WBC観戦など自分の興味のないtweetを見なくていいようにするにはどうするか」という議論があり(同じ議論を読んだ人は少なくないと思う)、参考情報として「Twitterで観戦実況するときはハッシュタグをつけるのが一種のマナーになっている」というコメントがあった。
一部のクライアントだとハッシュタグ単位でミュートできるから、ということだ。


ハッシュタグは比較的早期から観戦実況でも使われていたような気がするが、その理由が「ハッシュタグつきの情報だけ集めたい」人のためだけと思っていたので、「ハッシュタグつきの情報は見たくない」人のためのものだという視点が新鮮だった。
自分もTwiterrificやTweenなどその時々で流行のクライアントを追いかけていたが、徐々に物臭になりweb画面からしか使わなくなってから数年になるので、最近のクライアント事情には想像が及んでいなかった。反省。


ただ、「一種のマナーになっている」という状況説明が引っかかった。
既に「マナーになっている」のはどこでだろう。
ハッシュタグをつけないで実況するユーザーはもはや、「マナー」を知らないと見なされる時代になってしまったか。
Twitterは毎日見ているが、正しい使い方なんて正直watchしていないので、自分の知らないところでTwitterのマナーが明文化されていたとしても文句は言えない。
自分も今や時代遅れの情弱老害の一人なのだ。。。云々。


...「マナー」という言葉に過剰反応したのが恐らくよくなかった。
「無断フォロー禁止」「シェアさせてください」に関する議論を読んでうんざりしたことを思い出し、この手の「マナー」論には胡散臭いという第一印象しかなくなってしまった。
やる習慣のないものをやらないといけない、となると生理的に反感を覚えるが、この「ハッシュタグ」はよく考えれば同じ「マナー」でも「無断フォロー禁止」よりははるかに合理的だと個人的には思う。
「このtweetWBCモードである」かどうかをクライアントが自動的に判断するのはまだ難しいと思われるからだ。
「TLを人為的にセマンティックにすることでコンピューターフレンドリーにし、結果的にユーザーフレンドリーにする」という考え方は現実的だし、そういう方式は既によく研究・提案されているはずだ。


さらに言えば、マナーという形でなくとも、制約があること自体は常に悪とは言い切れない。
例えば「あー」とか「寒い」とかいう短いtweetはノイズなのでできるだけ無視したい、というような要望はありうる(というか自分がそうだったりするが)。
10文字未満のtweetを無視するクライアントを作れば取り急ぎ要望の大部分は満たされてTLはすっきりするかもしれないが、やはり一部の貴重な情報が失われて会話が成立しなくなることは起こりうる。


同じ要望を持った人間が仮に制度設計側に立っているなら、10文字未満のtweetはできないようにするかもしれない。
仮にそうなっても「あーーーーーーーーー」という10文字越えtweetはもちろんなくならないだろうが、ノイズは減りそうだ。
Twitterがそんな堅苦しいユーザーだけのためのサービスになることは当分ないだろうが、本来Twitterが140字以内という制約をもって現れたサービスであることを考えれば無理のある制約ではない。


ハッシュタグについて考えると、ハッシュタグが「マナー」といえるほど普及している状態なら、「ハッシュタグがないtweetを無視する」オプションがあるようなクライアントを作ったらある程度使い物になるかもしれないが、やはり「ハッシュタグをつけ忘れた」tweetは失われてしまう。
もちろんこれも想像だが、「ハッシュタグのないtweetはできない」という制約がサービスとして課されるなら、かなりコンピューターフレンドリーな(整理された)TLになりそうだ。
この場合押し進めると、もともとハッシュタグがついていないtweetには#notag がクライアントのデフォルトでつくことになり、ハッシュタグのつけ忘れは減る(ハッシュタグがない状態より、#notag が誤ってついている状況のほうがつけ忘れに気づきやすい)。
ノイズ嫌いな受信者が #notag だけ読まないようにしたとしてもきちんと文脈を追えるだろう。


マナー上の制約からいつの間にか設計上の制約の話に飛んでしまったが、もともとは前者ってどれくらい普及してるのという話だった。
ハッシュタグをつけない男の人って…」という世界になったらやや面倒な気もするけれども、案外すぐに慣れそうな気もするし、それでTwitterによる情報コントロールがスムーズになるなら喜びのほうが多いのかもしれない。


ということで、「もしTwitterがこうなっていたら」というよくある誰得な妄想でした。


*1

*1:ここで書いた設計上の制約とマナー上の制約は、それぞれレッシグの「アーキテクチャによる規制」と「規範による規制」に相当する気がするが、そこからどう話が広がるのか想像しにくかったし、 Webの情報にもっと意味を与えようという前向きな話でやはり違うなと思ったので一度置いておく。