"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

『いま世界の哲学者が考えていること』を読む

いま世界の哲学者が考えていること

いま世界の哲学者が考えていること

本書の序章によれば、歴史を問い直すというのが哲学の重要な機能である。より簡潔には、これからの重要な社会課題に向き合うための水先案内である。
とくにSF好きや社会派には馴染みの問題設定も多く、第2章以降の章立てを見ることである程度方向性の予想はつくかもしれない。

  • 第2章:IT革命は人類に何をもたらすのか
  • 第3章:バイオテクノロジーは「人間」をどこに導くのか
  • 第4章:資本主義は21世紀でも通用するのか
  • 第5章:人類が宗教を捨てることはありえないのか
  • 第6章:人類は地球を守らなくてははいけないのか

しかしなお興味深い話題も色々とあった。もう少し説明が欲しいと思ったところは、読者の探究心に任されているということだろう。
さらに興味があれば、エッセンスの多くをダイヤモンドのWebで読むことができる。

個人的なハイライトは第1章の21世紀哲学の転回に関する総論であった。1960年代以降、ドイツのマルクス主義フランクフルト学派や解釈学へ、フランスの実存主義がポスト構造主義へとポジションを譲りながら、共通言語としての英米の分析哲学を取り入れていく。これを総じて20世紀哲学の言語論的転回と呼ぶことができるが、では変わって21世紀の哲学はいかなる転回点を迎えているのか、という3つの潮流が紹介されている。この史観を通底した全体構成というわけでもなく、第1章を意識しなくても読めるように切断されている。が、ここに配された各々の論者についても知ることで俯瞰がより深まるのだろうということで、後学のために記しておく。

情報収集再考

知的生産のうち、情報収集の側面について雑考。

瞑想を含む最近の脳科学は、意識的な処理を何もしていないようにみえる時間が脳にとって重要であると教える。
つまり、ぼうっとしたり何も考えない、休んでいる時間があるからといって脳の能力を最大限に使役していないとは言えないということになる。
しかし、これは思考についてのことであり、情報収集についてはまた別の話であると思う。

satzz.hatenablog.com

以前伝聞したこの話には、今なお真理がある。
情報収集は人間が本質的にエネルギーを注ぐべき営みではないと同時に、人間の思考と独立に常に動いている必要がある。
情報収集は一種のロジスティクス、デリバリーであり、それが効率的に動いていない時間というのは(輻輳やバッファを除けば)無駄な時間である。
脳の活用を最大化するために、バックグラウンドの情報収集システムの稼働を休める必要はない。

重要なのは、脳が休んでいる思考の隙間にも、必要十分な情報が脳の手前に届いており、料理できるような状態をつくることだ。
これを行うシステムがどのようなことができる必要があるかを考えてみる。

  • 良質な情報源をもつ
    • 悪質な情報を排除する。英米では混乱する政況を受けてニュースプラットフォームがfact checkの自動化に注力, 辞書がpost-truthをフィーチャーし、奇しくも日本では権利・信憑性に問題のあるWebサイトの自浄が始まった
      • 情報のソースをたどる
      • 日本語以外の情報を収集する。恐らく英語は日本語よりコンピューターフレンドリーである
      • 書籍や論文でクロスチェックする
    • ソーシャルネットワーク・人脈を活用してオンサイト・プライベートな情報チャネルを構築する。フットワークで情報を稼ぐということでもある
      • ただし、ソーシャルな情報の機能はどちらかといえば差別化であり、無批判に信頼できるわけではない
  • 情報が過去・未来の知識体系の中のどこにmapされるのかを洞察する
    • 既知の知識体系は何らかの形で構造化されているか
      • 情報や知識の最適な構造化が存在するかは恐らく議論がある。知識についての知識や思考が必要
      • さらに、情報の伝達経路の理論化も恐らく必要
      • 情報理論現象学言語学などの形式化と合わせて、計算論的にはどう表現されているかが重要
    • その情報はどう新しく、どう既知の情報とオーバーラップするのか
      • どういったキーワードが出現しているのか(これについては計算論的に扱いやすい)
      • 情報の出現に歴史的なパターンはあるのか
    • その情報は、未来予測にどういう変化をもたらすのか
      • どういう可能性(仮説)がありえるのか
      • 逆にどういう情報が足りていないのか
    • その情報は、価値観にどういう変化をもたらすのか
      • 人類が何に価値を見出すようになっているのか
    • 脳や市場やメディアはその情報にどう反応しているのか(メタ認知
      • その反応は必要十分なものなのか
      • その情報の価値が最大化されるタイミングはいつで、環境はどこなのか

なんとなくこの2つに大きくまとめられるように思う。

クリスマスソング

サンクスギビングバークレーはゴーストタウンのようだったが、たまたま立ち寄ったカフェは開店していた。Instagramの投稿が雄弁する理由を見るに、バークレーらしいというかなんというか。

www.instagram.com

この写真はアダムスファミリー2で、先住民の歴史を知った少女がサンクスギビングで大騒ぎする一幕だ。フィデル・カストロが没したのでまた暫くしたら行ってみたい、ゲリラカフェ。

サンクスギビングが終わるとあちこちでクリスマスソングが流れ始めて、何故か少し複雑な気分になった。日本でさえこの季節からクリスマスモードになるのはもう珍しくないというのに、それがアメリカで流れることに何の違和感があるだろうか。そういえば30歳の12月に一人セントラルパークで吠えるブルースがミスチルにあったなと思い出すが、そういう気分というわけではなさそうだ。多分もう少し特殊な事情が原因だ。

自分はクリスチャンではないがミッションスクールの出身だ。特にミサ曲のようなクリスマスソングが普通の人以上に刷り込まれており、ラテン語も割と身近だ。聞いた瞬間に高校時代に引き戻されるのだ。

しかし、トラウマがあるというわけではない。むしろ、代々受け継がれる聖劇を喜んで運営する側だった。宗教心もなく生意気な人間にしては意外なことに、厳かな降誕の物語を再現する慣行に敬意を払い、卒業してなお、愛していたとさえ言える。そういうわけで今でも、カリフォルニアやサンフランシスコの起源を語るミッションの史跡に、(フニペロ・セラが行ったような伝道活動が妥当であったかはさておき)少なからぬ畏敬を覚える。

それならクリスマスソングにも些かの郷愁を感じてもいいはずだが、強制的に昔を思い出させるようなものに対する警戒があるのかもしれない。目に入るものを自分で選ぶことは可能だが、そこにいながら聞こえるものを避けるのは難しい。そして音楽は脳処理の空いているスロットをたやすく支配し、精神をコントロールする。

たとえクリスマスソングに流行があるにせよ、まあ流れる曲はアメリカも日本も同じだろう。一つのターニングポイントを迎えつつあるこの国で、この一ヶ月間は「変わらない伝統」を強く意識せざるを得ないという予感に、本能的に体が混乱して身構えたのかもしれない。少し病的だ。

wanderlust

月並みだが、イライラしたときや落ち込んだときにInstagramで美しい風景の写真を見るのが好きだ。earth pornをググればまあ大量に出てくるが、自然である必要はない。街でもいいし案外廃墟でもいいのかもしれない。普段見ているInstagramがいい感じのアカウントを適宜サジェスチョンしてくるせいで、タイムラインはいつの間にかearth pornでいっぱいになってしまった。Facebookでもいいのだが、小うるさい説明やコメントはいらない。ソーシャルである必要もそれほどない。

食べ物の写真もいいのだが、空腹でないときには心が動かないし、食べ物には他人ほど思い入れがない。 食べたことがないものがあっても気にならないが、よく知らない文化がある遠い土地のことを知るとうずうずする。 ペットの写真も好きだが、何か笑わせようとする力を感じることがある。

こういう写真をとりたい、これを写真でなく自分の目で見たい、親しい誰かにも見てほしいと思わせるのは、何故かいつも風景の写真だ。 『コラテラル』でジェイミー・フォックス演じるタクシードライバーが、モルジブかどこかの写真を車内に貼っていつも眺めていた気持ちは、何となくわかる。

旅への抑えられない欲望を理屈で説明するのは難しい。それは非常に個人的なものだ。 大人になるまで芽生えなかった自然への愛であり、 世界史で学んだ知識のネットワークを無駄にしたくないという好奇心の延長であり、 人口が密集した狭隘な都市や均質的な郷土の空気からの逃避であり、 どうにかグローバルなフットワークを示そうとする陳腐な承認欲求であり、 それを見せてくれる人への憧れであり、 今いる場所で美しいものを見つけるのが下手という飽きっぽさであり、 旅ばかりして何が変わるのかと言って日々を過ごしていく人々への反発であり、 そして行きたい場所に行けないまま冥土へ旅立つことへの恐怖でもある。

時間や空間の使い方を自分でコントロールしているような気になるのかもしれない。 食べ物は腐る前にどうにかしなければいけない。ペットのシャッターチャンスは一瞬だ。しかし風景は、ときに何十年、何百年も、自分が訪れるのを待っていてくれる。 風景は、自分がどこか違う世界へ足を踏み出すことを励ましてくれている。 そしてその場所がそんなに気に入らなければ素通りすることもまた、許容してくれる。

運転にせよ旅にせよ、自分自身の物理的な移動をコントロールしているときに感じるエクスタシーは、移動を制限されたときのフラストレーションと表裏一体だ。 だから気楽に旅ができなくなる世界をもたらそうとする人々に対してある種の憎しみをも覚える。 彼らが、自分の世界を壊してしまったと考える人々に憎しみを覚えるように。

旅を実行できるときにしなかったことを後悔さえする。 これまで思い切った旅をしなかったわけではない。 シベリア鉄道に乗ったこともあり、1ヶ月かけて欧米を回ったこともある。 しかしほかの多くの欲望と同じように、wanderlustには終わりがない、いや終わりにしたくないという中毒性がある。 これは、先天的なものなのか、それとも後天的なものなのだろうか。 旅をしたくなくなるときは、いつか訪れるのだろうか。

f:id:satzz:20161123140712j:plain

photo: Mijas, Spain 2013

人工生命と倫理

anond.hatelabo.jp

川上氏と宮﨑氏を追ったNHKスペシャルの件、これが川上氏本人の見解かどうかはさておき、断片的に上がっている画像や動画をみて真っ先に思い出したのはOpenAI Gymを使った強化学習による人工生命のデモだ。

Train Your Reinforcement Learning Agents at the OpenAI Gym | Parallel Forall

www.youtube.com

最近見たデモは、実際にはこれよりもずっと生命っぽさのあるものだった。

 

そして、Open AIのデモを観たときに思い出したのはさらに前の、遺伝的アルゴリズムによる人工生命だ。 

www.youtube.com

 

要するに、研究者やエンジニアが生命の進化に思いを馳せてこういうデモを行うこと自体はこのように珍しいことではなく、今更感がある。ただそれが3D CGのフィールドに出てくることが増えて、視覚的なインパクトが強くなっているというに過ぎない。

 

エンジニアとアニメーターがそれぞれの考えで生命を模したものを作る活動の根源は同じで、生命の驚異に対する畏怖と呼べるものだろう。この番組の状況は知らないが、その畏怖が気持ち悪い・面白いという気楽な表現をとってしまう、また障害者との身近な付き合いから笑えない、といった相手の背景に踏み込んでしまうことで「不快にさせる」ような衝突はあり、さらにテレビ的な演出が加わって問題を薄っぺらく見せてしまうということもある。だからといって両者が相容れないということはないと思いたい。

 

しかし、同じものを感じているにもかかわらずミスコミュニケーションが発生しているように見えること自体は少し頭の隅においておきたい。

 

恐らく人類のマジョリティは、自分と見た目や行動が違う個体を異形として迫害したり、逆に神話化することで歴史の物語を成立させてきたという側面がある。異形への恐怖や忌避そのものは、デフォルメされて我々の文化に深く根付いている。仮に例えば、古の異民族や被差別民、障害者、貧民といった社会から追いやられてしまった人々の歴史が、鬼や怪物にカリカチュア化され、それを恐れたり清めたりする風習が現代も愛されているとして、これをpolitically incorrectだとして排撃することは難しいだろう。

 

では、未来はどうなのだろうか。この先数十年、人間に似たものがどんどん作られて、創造者と非創造者の見た目の違いが失われていくのを止めることはできないだろう。そのとき我々はどこから、不気味だと顔をしかめて笑えなくなるのだろうか。人工的な何かを異形だと感じる心理と、人類の少数を疎外してきた歴史的な背景、そして見た目の美しさによって相手を評価してしまう動物的な本能とのオーバーラップを、我々は間違いなく無視できなくなるだろう。そのとき、人類の倫理はこれに対して準備ができているのだろうか。

 

Flickrを使う

Flickrをまた使い始めた。

9年前から主に海外旅行の写真を上げていたのだが、ここ数年はソーシャルな楽しみのあるFacebook、それからInstagramに完全に移っていた。

しかし、改めてFlickrに写真を上げると結構きれいに保存できるし、アルバムの見え方もなんかいいので、Instagramとは違う楽しみを追うのもありだなと思う。

 

Golden Gate Bridge

ジャズを聞く

以前よりもジャズを聞くようになった。といってもジャンルもアーティストも全くわからない。運転しながらラジオをかける程度だ。

ハウスやテクノも好きなのだが、夜に聞くとテンションが上がりすぎてあまりよくないような気がしている。 ヒットチャートもラジオでよく聞いていたが、バラエティが極端に少なくて時々飽きてしまうし、一部の曲は歌詞まで聞くと本当にダウナーな曲で鬱陶しい気分にさせられてしまう。 クラシックも悪くないが、心地よすぎて眠くなることがあるので運転中はほとんど聞かない。

ジャズはよくわからないので何を聞いても新鮮だし、歌詞はほとんどないし、リズムやメロディーが時々予測できないからか脳が適度な緊張感を保っている。 不確実性の時代に案外向いた音楽かもしれない。

ラジオのジャズが有名曲なのか、どれくらいのローテーションで流しているのかもよくわからないので、気分的にはほとんど一期一会である。 今聞いているのが誰のなんという曲だか知らないが、行きずりになっても構わないと思えるのが不思議だ。 SoundCloudで大量に垂れ流すどこかの誰かの知らない音源からたまたま精神の波が高まってくるのをつかまえるのに似ている。

こういう形式の刺激との出会いは、特定のキュレータやコミュニティ、メディアによる度重なる濃厚な刺激へのアンチテーゼのようにも思える。 政策を無理に撚り合わせたような政党に投票するのが民主主義の最前線とは限らないのと同様、人には大体好きなアーティストがいるものだという仮定も、一時代の惰性に過ぎないなのかもしれない。

soundcloud.com