"血をもって書け。そうすればあなたは、血が精神だということを経験するだろう。"

壊れた人

日本に帰って、壊れた人を見る。自分からそう遠くない範囲の人が壊れてしまっている、そして壊れた人とその周りに浮き彫りになった「壊れていない世界」との隔たりを意識することが増えた。これは社会の変化というよりは、ある程度人付き合いが増えれば構造的に起こるものであるように思う。

東京と地方とに限らず、均質で他人との距離がほぼゼロ、そして逃げ場なしの日本では、周りの目が気になりすぎて自分が規範から浮いていないのかどうか無意識のチェックを走らせてしまう。これがないひとは強く、そして魅力的ではある。幸甚なことにそうした人とのつながりも多い。が、そうでない人は、ときに壊れてしまう。無意味なストレスだ。

エレベーターや電車で大声で電話したり音漏れしている人に強い違和感を感じるのは、彼らが静寂を破るからでもあるが、それ以前にその他大勢の人が静寂を死守しているからでもある。パーティ会場までいかなくても、二、三人が大声で話しているような場所であれば、そういう気遣いは無用だ。

単純な話をすれば、日本で壊れるくらいであれば一度日本を捨てて、とくに日本と違う文化圏にいってみるべきだと思ってしまう。天気がよいだけでも救われる人は多いはずだ、というのもあるが、日本という環境に身をおき続けることの別の問題は、周りの人の話していることがなまじ理解できてしまう、という点である。周りがどんな細かいことを話しているのかよくわからなければ、(日本人として)それを気にすることもない。

もちろん日本を離れている自分の時間を絶対的に賛美するつもりはない。海外に行っても、日本的な壊れ方をするリスクを避けるぶん結果的に別のリスクをとらざるを得ない。主語を大きくして言えば、アメリカの医療コストは極めて高く、ヨーロッパはもはやテロの大陸、ワーホリで人気のニュージーランドでさえ近年までは自殺国家の影があった。もちろんサンフランシスコにだって空気を読まなければならないシチュエーションはある。それで日本に帰りたくなるならやむを得ないが、それでもそういう世界を一度経験して自分の内面を更新してみること自体に意味がある。

対策の機会なく壊れた人を見るたびに、自分もそうなる可能性はあった、それどころかこれからもないとは限らないという可能性が透けて見える。自分が壊れたときのことを考えるのは老後のことを考えるのに似ていてやはり気が滅入るが、参考になるのはジョン・ロールズかもしれない。彼は自分が社会においてどんな位置にいるのか知らない、つまり最終的に何が自分の利益になるのかわからないという前提(無知のヴェール)のもとに社会設計を考えれば社会は普遍的によくなるはずという思考実験をする。

もちろんこれが行動指針として充分なものかどうかという議論は別途必要だ。壊れた人にも活躍の余地があるような場所を作れればいいのだが、そこまではまだ遠い。これは新年の誓いでもなんでもないが、ただ、とくに日本という社会に焦点をあてるときに自分ができることが仮にあるなら、多様な社会へつながるようなことには自分の人生のいくらかを捧げてもよいと思えている。それがいささか孤独な道になろうとも。

カルヴェ『社会言語学』など

我々は日頃、正しい日本語あるいは正しい英語という頭の中の言語規範からなるべく外れないように社会生活を送る。一方、多くの言語学者の立場によれば、言語というのは本来いろいろな要因により(通時的共時的に)変化をみせるものである。言語を変化させる社会的な要因や変数の存在を仮定し、さまざまな社会学的検証を試みるのが社会言語学である。

社会言語学の系譜

社会言語学 (文庫クセジュ)

社会言語学 (文庫クセジュ)

本書は1993年にクセジュから出た社会言語学の入門書である。類書と違う印象を受けるとすれば、自然と研究例もフランコフォニー(フランス語圏)が多い点である。

例えば歴代フランス指導者の演説における、リエゾンにおけるアンシェヌマンの推移などは(フランス語に頻繁に接しない日本人が親しみを持つのは難しいとしても)データとしては面白い。

フランコフォニーにおける言語問題といえばケベックやベルギーのケースを無視することではできないはずで、カルヴェには言語戦争や言語政策についてのより詳細な著作もあるが、ここでは本書から社会言語学の歴史的萌芽を簡単に追ってみる。

本書においては必然の結論となるが、言語学は言語の研究というよりも、言語共同体の研究となる。

強調しておかねばならないのは、「被支配的言語」という表現は、(「支配的言語」という表現と同様に)一つのメタファーだということである。支配されている(あるいは支配している)のは、言語ではなく、人びとなのである。

社会言語学言語学の一部であるのではなく、言語学そのものであるということになる。著者カルヴェは冒頭で、社会言語学こそが言語学であるというこの立場の系譜をアントワーヌ・メイエに求める。我々は近代言語学の祖としてフェルディナン・ド・ソシュールを知るが、メイエはソシュールの門弟であると同時にソシュールに対峙し、社会学的現象としての言語を強調する。メイエの労苦はあったものの、ソシュール以降の言語学は大筋として、言語の内部構造を主要な立脚点とした。たとえば生成文法の先駆であるチョムスキーは、脳機能の内的なシステムとして言語の分析を行った。

社会主義圏の言語学

ヨーロッパである意味無視されていた言語の社会的側面の研究は、はじめマルクス主義と熱烈に結合し、ニコライ・マルの新言語理論がソビエトロシアの庇護下で公式化される。その要旨は「言語には段階的進化があり、それは階級闘争や社会の進歩と対応する」といういかにもなものであり、

それを批判する者たちは、シベリアの言語状況を分析しに行かなければならない危険性が多分にあった

という(フィールド調査の重要性に鑑みてもなお)アネクドート的状況であった。批評家ミハイル・バフチンは「ソシュールは言語記号がイデオロギーの場であることを理解しなかった」とまで断じる。

しかし、この後にソビエトの強権を握ったグルジア生まれのヨシフ・スターリンは、言語の階級性を否定した。言語学的な意義はともかく、おそらく彼の生涯では最も穏当な部類に入る政策であろう。ソビエト育ちの新言語理論は、1950年頃、ソビエト自身によってあっけなく葬り去られ、今度はその場を中国へ移して、普通話の標準化などの政策へ接続していく。

社会言語学そのものの可能性が、没政治的ではありえないというメタなストーリーがここには読み取れる。

米国における展開

科学史に名高いメイシー会議はニューヨークで開かれ、1946年から1953年までの10回にわたり、サイバネティクスという新しい科学の端緒を切る。ソビエトや中国では袋小路に入った社会言語学も同様に、英語圏で新たな時代へと入っていく。

英国のバジル・バーンステインは連帯に関するデュルケームの類型に着想を得て社会階級と子供の言語コードの関係の分析を試みる。ウィリアム・ブライトは1964年にロサンゼルスのUCLAに25人の社会言語学者を招集する。その成果は社会言語学の対象の体系化、報告書の刊行として結実したが、社会言語学はまだ言語学あるいは社会学をサポートする従属的な領野であるという位置づけに変更はなかった。これに対し、社会言語学こそが言語学であるという方向づけを主張したのはこの学会にも参加したウィリアム・ラボフである。

先述のメイエは時代の比較言語学者らしく、あくまで古典語にフォーカスした。ラボフは世紀のメトロポリスであるニューヨークを拠点に生の英語を観察し、1960年頃の研究ではマサチューセッツの離島民の英語と、次いでなされたニューヨークのデパート職員の英語の調査が有名である。前者においては二重母音の発音と、住民が失業率の高い島にとどまるか大陸へ渡るかという意志の間の相関、後者においては母音の後のrの発音と、職場のデパートが大衆向きか高級デパートかの間の相関を突き止めた。ラボフの一連の研究は、構造主義言語学の呪縛を離れてパロール(実際の発話)を重視する音声学的側面、それを話者から引き出す実験手法、社会的分布との関係性を見る検証の方向性の面で一つの金字塔となった。

バイリンガリズム

さて、本書から20年以上を経ている現在、社会と言語がどのように相互に影響しているのかといういくつかの風景をメモしておく。

カリフォルニアでは2016年大統領選と並行していくつかの法案が可決した。そのなかのProposition 58は1998年に導入されたバイリンガル教育の制限(Proposition 227)を廃止するものである。

移民の多いカリフォルニアで多様性を育むことを目指す言語教育が推進されることは一見自然ではあるが、それでも20年前に優勢であったのは、英語以外の言語を話せる教員による教育機会を極めて限定する同和的な言語政策であった。その根拠は、英語単一での学習に絞ったほうが、学習が効率化されるというものであった。接触する言語の選択肢が多様であることの学術的な重要性だけでは、言語やアイデンティティを選択することで経済的・戦略的に人生を設計していくのは最終的には話者本人であるという実存的な地平を完全に被覆することは難しい。

本書の段階では、ベルファスト北アイルランド)の中国語コミュニティに関する研究(レズリー・ミルロイ,1980)によれば、イギリス生まれの中国系移民は、親の中国語を解しても自らはなるべく英語で話そうとしており、これは移民第一世代が中国語で話そうとするのと対照されている。ラボフの離島民の研究をみても、あるいは簡単な内省をもってしても、本人のおかれた、もしくは望む社会的状況によって使役する言語が変わるというのはありふれた自然現象である。

この数十年のアカデミックな進展や社会状況の変化を加味するのであれば、親の生まれという単純な社会的カテゴリに限らず、多層的な社会的ネットワークによる言語分布への影響、および個人の思考傾向と言語の関係に関する論争や知見も無視できないであろうことが予測される。

ジェンダーと代名詞

英語圏ではhe(男性)/she(女性)という代名詞の区別が伝統的であるが、従来の性別にこだわらない人称代名詞としてxezeといった新しい代名詞を導入してはどうかという議論がある。

カリフォルニアでも、イベントで使う自己紹介用のラベルに、名前と共に「自分がどういう代名詞を使ってほしいか」を記入するようすすめられることがある。ここでの選択肢は恐らくまだhe/sheに限定されるであろうが、そのどちらを使うのか外見から明らかであるという決めつけをせめて回避しようという試行錯誤の例である。上のような言語的状況は、性別に関する固定観念をいったん保留しようという社会運動のムードと呼応している。

ちなみにトルコ語の三人称人称代名詞ジェンダーの区別なくOである。これが英語話者を(ときに受け入れがたいレベルで)戸惑わせるのを見るが、2つ、もしくは中性をいれて3つのジェンダーが区別されなければならないという要請が必然ではないのは言うまでもない。

多文化言語と発音

英国のヨーク大学およびHSBCの社会言語学者ドミニク・ワットらは2016年9月に、50年後のイギリス英語の姿に関する予測を行った。英語圏におけるロンドン英語の影響力を前提とした、今世紀半ばの興味深い英語像が描かれるのであるが、例えば発音に関する部分は以下のようになる。

ロンドン訛りとしてのコックニーに取って代わった多文化ロンドン英語(カリブ・西アフリカ・アジア移民の影響下にある英語)では、例えば英語に極めて特徴的なth音は消滅しdis(this)となる。英語話者以外には馴染みがないth音の学習に苦しむのは日本語話者に限らず、たとえばスペイン語話者も時々この発音をする。しかし変化はこれにとどまらず、たとえばfink(think), muvver(mother)のような音も増えるかもしれないと聞けば、驚かずにいられない。

英語のrやlもほとんど存在感のない音になる可能性がある。英国南部においてwとrは既にかなり似ており、同様にtreesとcheeseの区別もほぼなくなる可能性があるという。このケースも、例えば広東語話者のtreeなどを聞くと頷ける。

もっとも、『マイ・フェア・レディ』原作者ジョージ・バーナード・ショウの名高いミーム"ghoti"よろしく、不可解な綴りは残るかもしれない。英語において、これは常である。

2016

Webアプリケーション運用

  • Rails4, Heroku, Google Analytics, New Relic etcの経験を積んだ。
  • フロントエンド恐怖症を克服した: Webpack, React, Redux, D3, etc
  • staticなプロフィールページを作った: satzz.me
  • その他技術的なこと: Qiita
  • 時差ありの全員リモートの小規模エンジニアチームをリードした。

よく開いたアプリ、Webサービス

  • Pokemon Go: 日本国外で先んじてリリースされたPokemon Goはかなり流行っていて、ピークがだいぶ過ぎてからも根気強く続けている人を結構見た。運転しながらポケストップ巡回している人もいて気をつけてねという感じだった。普段ゲームあまりやらないので、チュートリアルをなんとかクリアしたあたりでもう力尽きた。

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  • ほかはInstacart, OpenTable, WeChat, UberEATSなど。

米国西海岸

  • 起業家だらけのシェアハウスに滞在した。家の中に会社がいくつあるのかわからない状態で、さすがシリコンバレーという感じだった: HackerHome
  • Nexus6Pユーザーになった。モノにはだいぶ満足しているが、GoogleでなくBestBuyで買ってしまったために、壊れてしまったときにGoogle,BestBuy,HUAWEI,T-Mobileの間をたらい回しにされるひどい目に遭った。
  • サンフランシスコやベイエリアのカフェ巡りした。
  • Language Exchangeへ参加した。英語以外だとカリフォルニアはやはりスペイン語、北京語が多いが、ロシア語、韓国語、広東語、フランス語など毎回いろんな話者と出会える。日本語を勉強している人も結構いるので教えてあげたりした。
  • 技術系のミートアップに参加したり、オフィス巡りした。
  • アダルトスクール(成人教育)の英語のクラスに参加した。重要なことに基本無料で、テストによってレベル分けされるので、上の2つでも英語の練習に物足りないと感じたら是非参加してみるとよいと思う。
  • 米国大統領選を目撃した。カリフォルニアで共和党大会があった時、会場のホテルの前のデモを見たが、大変香ばしかった: 新世界を迎えて - Schreibe mit Blut
  • ポートランドへ行った。ポートランドのことを知ったのはuiureoさんの記事がきっかけだった。2泊しただけだがいい人ばかりで過ごしやすい感じだった。女子中学生たちがランチしている公園で、ホームレスがゴミ箱をあさりつつアーティストの演奏を傾聴しながらチップをやっているのを見ると、緊張に満ちたサンフランシスコとはだいぶ違う時間が流れていた。そのポートランドでさえ大統領選の後は暴動が発生するレベルだったようなので、よっぽどトランプ氏が嫌だったのだろう。
  • ゴルフ大会のスタッフをやった。
  • 食事はハワイ料理(ショートリブやポキ)、ベトナム料理(フォー)、サンドイッチ、メキシコ料理、中華料理をよくローテーションし、自炊するときはチキンを焼いて食べることが多かった。
  • Yosemiteでハイキングした: YosemiteのClouds Restに登る – Far Off – Medium
  • SF Fleet Weekの航空ショーを見た: DSC_1009
  • Soylent, Coffiestを飲んだ: www.instagram.com
  • NoiseBridgeというテックスペースに行った。レーザーカッティングを体験した:

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  • ナパでワインを飲んだ:

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消費コンテンツ

今年は映画もドラマも漫画も、個人的にはよいものに巡り会えた。

高い城の男』がAmazon Prime Videoでドラマ化された。全ジャパンタウン化したサンフランシスコも登場しザワザワとなる。
The Man in the High Castle Season 1 Explained - YouTube
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The Martian(『火星の人』)はよかったが、個人的には原作がちらついて映画の細部に集中できなかったので、原作を直前に読むのはやめることにした。
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Arrival(『あなたの人生の物語』)は全体の世界観も、フィールド言語学的なシーンも面白い。言語系SFだと『言語都市』なども映像化を見てみたい(かなり難しい挑戦になりそうだが)。
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House of Cardsは、最初は本当に自分が楽しめるのかと半信半疑だったが、現実の大統領選と並行して進んでいくのを観るにつれなかなか没入感があってよかった。
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The Future is Brightと号しながらテクノロジーと人間の未来の闇のシミュレーションを試みるBlack Mirrorは、各話完結なのでSeason 3からいきなり観始めるのもオススメ。英国製ドラマならではの社会背景も垣間見えてなるほどとなる。
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抱腹絶倒のシリコンバレー
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日本で盛り上がったシン・ゴジラはサンフランシスコのRoxie Theaterでタイミングよく上映されたのを観た。アメリカ人たちはゴジラ大暴れで大爆笑、米軍の登場でまた大爆笑だった。このRoxie Theaterは上映前に館長っぽい人の説明が入る超ローカルな感じで、ときどき日本の映画もやってくれるようだった。
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以下の三つはRebuild: Aftershow 141: We Evolved From Water Fleas (hak)から。貴重なSci-Fi情報いつもありがとうございます。

ブラッド・ミュージック (ハヤカワ文庫SF)

ブラッド・ミュージック (ハヤカワ文庫SF)

バイナリ畑でつかまえて

バイナリ畑でつかまえて

コミック

オーダーメイド 1巻 (芳文社コミックス)

オーダーメイド 1巻 (芳文社コミックス)

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少女終末旅行 1巻 (バンチコミックス)

少女終末旅行 1巻 (バンチコミックス)

駆け足、というかもっとちゃんと説明しろよという感じだが、もし趣味があいそうな人がいたら仲良くしてください。それでは良いお年を。

『いま世界の哲学者が考えていること』を読む

いま世界の哲学者が考えていること

いま世界の哲学者が考えていること

本書の序章によれば、歴史を問い直すというのが哲学の重要な機能である。より簡潔には、これからの重要な社会課題に向き合うための水先案内である。
とくにSF好きや社会派には馴染みの問題設定も多く、第2章以降の章立てを見ることである程度方向性の予想はつくかもしれない。

  • 第2章:IT革命は人類に何をもたらすのか
  • 第3章:バイオテクノロジーは「人間」をどこに導くのか
  • 第4章:資本主義は21世紀でも通用するのか
  • 第5章:人類が宗教を捨てることはありえないのか
  • 第6章:人類は地球を守らなくてははいけないのか

しかしなお興味深い話題も色々とあった。もう少し説明が欲しいと思ったところは、読者の探究心に任されているということだろう。
さらに興味があれば、エッセンスの多くをダイヤモンドのWebで読むことができる。

個人的なハイライトは第1章の21世紀哲学の転回に関する総論であった。1960年代以降、ドイツのマルクス主義フランクフルト学派や解釈学へ、フランスの実存主義がポスト構造主義へとポジションを譲りながら、共通言語としての英米の分析哲学を取り入れていく。これを総じて20世紀哲学の言語論的転回と呼ぶことができるが、では変わって21世紀の哲学はいかなる転回点を迎えているのか、という3つの潮流が紹介されている。この史観を通底した全体構成というわけでもなく、第1章を意識しなくても読めるように切断されている。が、ここに配された各々の論者についても知ることで俯瞰がより深まるのだろうということで、後学のために記しておく。

情報収集再考

知的生産のうち、情報収集の側面について雑考。

瞑想を含む最近の脳科学は、意識的な処理を何もしていないようにみえる時間が脳にとって重要であると教える。
つまり、ぼうっとしたり何も考えない、休んでいる時間があるからといって脳の能力を最大限に使役していないとは言えないということになる。
しかし、これは思考についてのことであり、情報収集についてはまた別の話であると思う。

satzz.hatenablog.com

以前伝聞したこの話には、今なお真理がある。
情報収集は人間が本質的にエネルギーを注ぐべき営みではないと同時に、人間の思考と独立に常に動いている必要がある。
情報収集は一種のロジスティクス、デリバリーであり、それが効率的に動いていない時間というのは(輻輳やバッファを除けば)無駄な時間である。
脳の活用を最大化するために、バックグラウンドの情報収集システムの稼働を休める必要はない。

重要なのは、脳が休んでいる思考の隙間にも、必要十分な情報が脳の手前に届いており、料理できるような状態をつくることだ。
これを行うシステムがどのようなことができる必要があるかを考えてみる。

  • 良質な情報源をもつ
    • 悪質な情報を排除する。英米では混乱する政況を受けてニュースプラットフォームがfact checkの自動化に注力, 辞書がpost-truthをフィーチャーし、奇しくも日本では権利・信憑性に問題のあるWebサイトの自浄が始まった
      • 情報のソースをたどる
      • 日本語以外の情報を収集する。恐らく英語は日本語よりコンピューターフレンドリーである
      • 書籍や論文でクロスチェックする
    • ソーシャルネットワーク・人脈を活用してオンサイト・プライベートな情報チャネルを構築する。フットワークで情報を稼ぐということでもある
      • ただし、ソーシャルな情報の機能はどちらかといえば差別化であり、無批判に信頼できるわけではない
  • 情報が過去・未来の知識体系の中のどこにmapされるのかを洞察する
    • 既知の知識体系は何らかの形で構造化されているか
      • 情報や知識の最適な構造化が存在するかは恐らく議論がある。知識についての知識や思考が必要
      • さらに、情報の伝達経路の理論化も恐らく必要
      • 情報理論現象学言語学などの形式化と合わせて、計算論的にはどう表現されているかが重要
    • その情報はどう新しく、どう既知の情報とオーバーラップするのか
      • どういったキーワードが出現しているのか(これについては計算論的に扱いやすい)
      • 情報の出現に歴史的なパターンはあるのか
    • その情報は、未来予測にどういう変化をもたらすのか
      • どういう可能性(仮説)がありえるのか
      • 逆にどういう情報が足りていないのか
    • その情報は、価値観にどういう変化をもたらすのか
      • 人類が何に価値を見出すようになっているのか
    • 脳や市場やメディアはその情報にどう反応しているのか(メタ認知
      • その反応は必要十分なものなのか
      • その情報の価値が最大化されるタイミングはいつで、環境はどこなのか

なんとなくこの2つに大きくまとめられるように思う。

クリスマスソング

サンクスギビングバークレーはゴーストタウンのようだったが、たまたま立ち寄ったカフェは開店していた。Instagramの投稿が雄弁する理由を見るに、バークレーらしいというかなんというか。

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この写真はアダムスファミリー2で、先住民の歴史を知った少女がサンクスギビングで大騒ぎする一幕だ。フィデル・カストロが没したのでまた暫くしたら行ってみたい、ゲリラカフェ。

サンクスギビングが終わるとあちこちでクリスマスソングが流れ始めて、何故か少し複雑な気分になった。日本でさえこの季節からクリスマスモードになるのはもう珍しくないというのに、それがアメリカで流れることに何の違和感があるだろうか。そういえば30歳の12月に一人セントラルパークで吠えるブルースがミスチルにあったなと思い出すが、そういう気分というわけではなさそうだ。多分もう少し特殊な事情が原因だ。

自分はクリスチャンではないがミッションスクールの出身だ。特にミサ曲のようなクリスマスソングが普通の人以上に刷り込まれており、ラテン語も割と身近だ。聞いた瞬間に高校時代に引き戻されるのだ。

しかし、トラウマがあるというわけではない。むしろ、代々受け継がれる聖劇を喜んで運営する側だった。宗教心もなく生意気な人間にしては意外なことに、厳かな降誕の物語を再現する慣行に敬意を払い、卒業してなお、愛していたとさえ言える。そういうわけで今でも、カリフォルニアやサンフランシスコの起源を語るミッションの史跡に、(フニペロ・セラが行ったような伝道活動が妥当であったかはさておき)少なからぬ畏敬を覚える。

それならクリスマスソングにも些かの郷愁を感じてもいいはずだが、強制的に昔を思い出させるようなものに対する警戒があるのかもしれない。目に入るものを自分で選ぶことは可能だが、そこにいながら聞こえるものを避けるのは難しい。そして音楽は脳処理の空いているスロットをたやすく支配し、精神をコントロールする。

たとえクリスマスソングに流行があるにせよ、まあ流れる曲はアメリカも日本も同じだろう。一つのターニングポイントを迎えつつあるこの国で、この一ヶ月間は「変わらない伝統」を強く意識せざるを得ないという予感に、本能的に体が混乱して身構えたのかもしれない。少し病的だ。

wanderlust

月並みだが、イライラしたときや落ち込んだときにInstagramで美しい風景の写真を見るのが好きだ。earth pornをググればまあ大量に出てくるが、自然である必要はない。街でもいいし案外廃墟でもいいのかもしれない。普段見ているInstagramがいい感じのアカウントを適宜サジェスチョンしてくるせいで、タイムラインはいつの間にかearth pornでいっぱいになってしまった。Facebookでもいいのだが、小うるさい説明やコメントはいらない。ソーシャルである必要もそれほどない。

食べ物の写真もいいのだが、空腹でないときには心が動かないし、食べ物には他人ほど思い入れがない。 食べたことがないものがあっても気にならないが、よく知らない文化がある遠い土地のことを知るとうずうずする。 ペットの写真も好きだが、何か笑わせようとする力を感じることがある。

こういう写真をとりたい、これを写真でなく自分の目で見たい、親しい誰かにも見てほしいと思わせるのは、何故かいつも風景の写真だ。 『コラテラル』でジェイミー・フォックス演じるタクシードライバーが、モルジブかどこかの写真を車内に貼っていつも眺めていた気持ちは、何となくわかる。

旅への抑えられない欲望を理屈で説明するのは難しい。それは非常に個人的なものだ。 大人になるまで芽生えなかった自然への愛であり、 世界史で学んだ知識のネットワークを無駄にしたくないという好奇心の延長であり、 人口が密集した狭隘な都市や均質的な郷土の空気からの逃避であり、 どうにかグローバルなフットワークを示そうとする陳腐な承認欲求であり、 それを見せてくれる人への憧れであり、 今いる場所で美しいものを見つけるのが下手という飽きっぽさであり、 旅ばかりして何が変わるのかと言って日々を過ごしていく人々への反発であり、 そして行きたい場所に行けないまま冥土へ旅立つことへの恐怖でもある。

時間や空間の使い方を自分でコントロールしているような気になるのかもしれない。 食べ物は腐る前にどうにかしなければいけない。ペットのシャッターチャンスは一瞬だ。しかし風景は、ときに何十年、何百年も、自分が訪れるのを待っていてくれる。 風景は、自分がどこか違う世界へ足を踏み出すことを励ましてくれている。 そしてその場所がそんなに気に入らなければ素通りすることもまた、許容してくれる。

運転にせよ旅にせよ、自分自身の物理的な移動をコントロールしているときに感じるエクスタシーは、移動を制限されたときのフラストレーションと表裏一体だ。 だから気楽に旅ができなくなる世界をもたらそうとする人々に対してある種の憎しみをも覚える。 彼らが、自分の世界を壊してしまったと考える人々に憎しみを覚えるように。

旅を実行できるときにしなかったことを後悔さえする。 これまで思い切った旅をしなかったわけではない。 シベリア鉄道に乗ったこともあり、1ヶ月かけて欧米を回ったこともある。 しかしほかの多くの欲望と同じように、wanderlustには終わりがない、いや終わりにしたくないという中毒性がある。 これは、先天的なものなのか、それとも後天的なものなのだろうか。 旅をしたくなくなるときは、いつか訪れるのだろうか。

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photo: Mijas, Spain 2013